泣かなくてもよい⑤
- 出演者
- 大嶋重徳
- 制作
- PBA 太平洋放送協会
- 再生時間
- 5min
- タグ
-
- 愛する人を失ったとき
- 死や命について考えているとき
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- アップロード日
- 2024.07.05
- カテゴリ
- 人物・人生
- 聖書箇所
-
[新約聖書] ルカの福音書 7章11~17節
- 放送日
- 2024.07.05
「世の光」の時間です。いかがお過ごしでしょうか。大嶋重徳です。今週は、イエス様が一人息子を失った母親に「泣かなくてもよい」とおっしゃった聖書ルカ7章から学んでいます。
イエス様は地上の人生で、十字架につけられて死なれました。青年を生き返らせておきながら、自分は殺されてしまいました。イエス様が十字架につけられて死なれたのは、私たちの罪をすべて引き受け、背負い、赦して下さるためです。そして、いつか必ず死に支配され、いのちを奪われてしまう私たちの苦しみと悲しみ、絶望を引き受けて下さるためでした。私たちの誰もが逃げることのできない死の支配をイエス様も体験して下さったのです。
そして「死んで終わり」ではない。3日後によみがえられたのです。「あなたに言う。『起きなさい』」とイエス様ご自身が、ご自分の葬列の流れをも止められたのです。弟子たちの悲しみの列を止められたのです。「泣かなくても良い」と人々の悲しみの涙を拭ってくださいました。「泣かなくても良い」。なぜならば、私は死をも司ることのできる神なのだと。人間には誰一人慰めることのできない死という巨大な力を前にして、イエス様は「青年よ。あなたに言う。起きなさい」と言われました。「泣かなくても良い」と言えるのは、死の支配から解放し、絶望して泣いている者を泣き止ませる力を持った神だからです。
今日、町の門の外の墓へと向かおうとしている私たちの人生の足を止め、イエス様は私たちに、心震わせながら言われます。私たちの行こうとしている場所の絶望を知って言われるのです。死の苦しみ、魂の苦しみを知っておられる方が、心震わせ、心痛めながら、私たちをかわいそうに思われているのです。
イエス・キリストは、死の支配下へと私たちを送ろうとする葬列の前に立ちはだかり、それを押し止める方なのです。「あなたがたが向かうのは、死の力が支配する死者の墓ではない」死んだ後もなお永遠のいのちを与える神のもとへとあなたを導くために、私は来たのだと言われる。このイエス様を信じ受け入れる時、私たちにとって死は絶望ではありません。私たちが向かうのは永遠のいのちに生かされる神のおられる場所です。どうかこのイエス様を信じ受け入れて頂きたいと思います。
イエス様は地上の人生で、十字架につけられて死なれました。青年を生き返らせておきながら、自分は殺されてしまいました。イエス様が十字架につけられて死なれたのは、私たちの罪をすべて引き受け、背負い、赦して下さるためです。そして、いつか必ず死に支配され、いのちを奪われてしまう私たちの苦しみと悲しみ、絶望を引き受けて下さるためでした。私たちの誰もが逃げることのできない死の支配をイエス様も体験して下さったのです。
そして「死んで終わり」ではない。3日後によみがえられたのです。「あなたに言う。『起きなさい』」とイエス様ご自身が、ご自分の葬列の流れをも止められたのです。弟子たちの悲しみの列を止められたのです。「泣かなくても良い」と人々の悲しみの涙を拭ってくださいました。「泣かなくても良い」。なぜならば、私は死をも司ることのできる神なのだと。人間には誰一人慰めることのできない死という巨大な力を前にして、イエス様は「青年よ。あなたに言う。起きなさい」と言われました。「泣かなくても良い」と言えるのは、死の支配から解放し、絶望して泣いている者を泣き止ませる力を持った神だからです。
今日、町の門の外の墓へと向かおうとしている私たちの人生の足を止め、イエス様は私たちに、心震わせながら言われます。私たちの行こうとしている場所の絶望を知って言われるのです。死の苦しみ、魂の苦しみを知っておられる方が、心震わせ、心痛めながら、私たちをかわいそうに思われているのです。
イエス・キリストは、死の支配下へと私たちを送ろうとする葬列の前に立ちはだかり、それを押し止める方なのです。「あなたがたが向かうのは、死の力が支配する死者の墓ではない」死んだ後もなお永遠のいのちを与える神のもとへとあなたを導くために、私は来たのだと言われる。このイエス様を信じ受け入れる時、私たちにとって死は絶望ではありません。私たちが向かうのは永遠のいのちに生かされる神のおられる場所です。どうかこのイエス様を信じ受け入れて頂きたいと思います。
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