喜びの時~いつも
- 出演者
- 水谷 潔
- 制作
- PBA 太平洋放送協会
- 再生時間
- 5min
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- アップロード日
- 2024.06.17
- カテゴリ
- 人物・人生
- 聖書箇所
-
[新約聖書] ピリピ人への手紙 4章4節
- 放送日
- 2024.06.17
「世の光」の時間です。いかがお過ごしでしょうか。今週、番組を担当する愛知県春日井市にあります、春日井聖書教会・協力牧師の水谷潔です。
新約聖書ピリピ人への手紙4章4節は、喜びについてこう記しています。「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい」。聖書は、いつも喜ぶように命じています。実は、イエス・キリストを信じる者に神様が与えてくださる喜びは、言わば「いつも喜べる喜び」です。
「いつも喜ぶ」などと聞きますと、ありえないことのように思われるかもしれません。普通、喜ぶには、喜べる出来事や喜べる環境がなくてはなりませんが、それがいつもあるとは限りません。ありえないと思うのは無理もないでしょう。
例えば、サッカーで、ゴールを決めた選手は飛び上り、ダンスをして全身で喜びを表現します。しかし、シュートがゴールを外れてしまうと、頭を抱え、膝をつき、失望や悔しさを表します。試合に勝利すれば喜べますが、負ければ喜べません。まさにスポーツの世界は一喜一憂です。
このことは、私たちの日常も同じではないでしょうか。外側の状況は移り変わりますから、いつも喜びなさいと言われても、それは無理です。喜べるかどうかは、状況次第です。
しかし、聖書が記す喜びは、移り変わることのない事実に立つ喜びです。神様が自分を愛しておられること、神様が与えてくださる希望、目には見えなくてもイエス・キリストが共にいらっしゃること。イエス様を信じる者にとって、これらは、状況に左右されることのない事実です。ですから、信じる者の内側にある喜びは、外側の変化によって、消え去ることも、奪われることもありません。
「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい」。イエス様を信じる者に与えられる喜びは「いつも喜べる喜び」です。それは、イエス様を信じる者の内側にある事実に立つ喜びです。苦しみの中でも失われることのない喜び、絶望でさえも奪い去ることのできない喜びです。
ラジオの前のあなたも、イエス様を信じ、この喜びの中を歩きませんか。明日のこの時間も、ぜひ、お聴きください。
新約聖書ピリピ人への手紙4章4節は、喜びについてこう記しています。「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい」。聖書は、いつも喜ぶように命じています。実は、イエス・キリストを信じる者に神様が与えてくださる喜びは、言わば「いつも喜べる喜び」です。
「いつも喜ぶ」などと聞きますと、ありえないことのように思われるかもしれません。普通、喜ぶには、喜べる出来事や喜べる環境がなくてはなりませんが、それがいつもあるとは限りません。ありえないと思うのは無理もないでしょう。
例えば、サッカーで、ゴールを決めた選手は飛び上り、ダンスをして全身で喜びを表現します。しかし、シュートがゴールを外れてしまうと、頭を抱え、膝をつき、失望や悔しさを表します。試合に勝利すれば喜べますが、負ければ喜べません。まさにスポーツの世界は一喜一憂です。
このことは、私たちの日常も同じではないでしょうか。外側の状況は移り変わりますから、いつも喜びなさいと言われても、それは無理です。喜べるかどうかは、状況次第です。
しかし、聖書が記す喜びは、移り変わることのない事実に立つ喜びです。神様が自分を愛しておられること、神様が与えてくださる希望、目には見えなくてもイエス・キリストが共にいらっしゃること。イエス様を信じる者にとって、これらは、状況に左右されることのない事実です。ですから、信じる者の内側にある喜びは、外側の変化によって、消え去ることも、奪われることもありません。
「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい」。イエス様を信じる者に与えられる喜びは「いつも喜べる喜び」です。それは、イエス様を信じる者の内側にある事実に立つ喜びです。苦しみの中でも失われることのない喜び、絶望でさえも奪い去ることのできない喜びです。
ラジオの前のあなたも、イエス様を信じ、この喜びの中を歩きませんか。明日のこの時間も、ぜひ、お聴きください。