投獄が福音の前進に
- 出演者
- 矢木良雄(インマヌエル桂町キリスト教会 牧師)
- 制作
- PBA太平洋放送協会
- 再生時間
- 5min
- タグ
-
- 一歩踏み出したいとき
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- アップロード日
- 2023.10.04
- カテゴリ
- 人物・人生
- 聖書箇所
-
[新約聖書] ピリピ人への手紙 1章12節
- 放送日
- 2023.10.04
「世の光」の時間です。お元気でお過ごしですか。インマヌエル桂町キリスト教会の矢木良雄です。
イエス・キリストの使徒パウロが、こんなことばを書いています。「私の身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったことを知ってほしいのです」当時、パウロはローマの牢獄に捕らえられていました。手には鎖が、足にも足かせがはめられていました。24時間ローマ兵の監視の下に置かれ、かつてのように自由に伝道旅行に出かけることもできません。災難としか言いようがありません。しかし、パウロの理解は、こんなことさえもかえって、福音の前進のために役立つというのです。
数年前に会議があって山形県米沢市を訪ねました。実は米沢市は私の父のふるさとなのです。会議の後、山形の史跡巡りツアーに参加しました。その時、米沢市の郊外、北三原にあるキリシタン殉教の遺跡を訪ねました。ただの原っぱに石碑と案内板が立っていました。ここで400年前に43人のキリシタンが処刑されたのです。
当時、米沢藩は上杉家が治めていました。処刑されたのは藩主の信任の篤い重臣の甘糟右衛門とその一族42人です。処刑当日、甘糟家の人々は藩の役人たちに先導され、右衛門を先頭に女性や子どもたちも含め、北三原の処刑場に向かいます。沿道に集まった人々に家老が命じます。「ここにおられるのは罪人ではない。高貴な志のために殉じようとされる方々である。土下座をしてお見送りするように」
私の父は、長く東京に住んでいましたが、米沢市に深い思い入れがありました。「米沢、米沢」とよく口にしていました。キリシタン殉教の歴史を聞いて、父のふるさとを誇る気持ちが少しわかったような気がします。徳川幕府の圧力があってもなお、甘糟一族をかばい続けた米沢藩主の上杉家、そして信仰に殉じた甘糟一族。なにか自分の中にも同じDNAが流れているような気がして、ちょっと誇らしい気持ちになりました。
身近な小さなことでも、私の身に起こったことを、不幸や災難で終わらせてしまうのでなく、「かえって」と次に繋がるのだと信じていきたいと思います。
イエス・キリストの使徒パウロが、こんなことばを書いています。「私の身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったことを知ってほしいのです」当時、パウロはローマの牢獄に捕らえられていました。手には鎖が、足にも足かせがはめられていました。24時間ローマ兵の監視の下に置かれ、かつてのように自由に伝道旅行に出かけることもできません。災難としか言いようがありません。しかし、パウロの理解は、こんなことさえもかえって、福音の前進のために役立つというのです。
数年前に会議があって山形県米沢市を訪ねました。実は米沢市は私の父のふるさとなのです。会議の後、山形の史跡巡りツアーに参加しました。その時、米沢市の郊外、北三原にあるキリシタン殉教の遺跡を訪ねました。ただの原っぱに石碑と案内板が立っていました。ここで400年前に43人のキリシタンが処刑されたのです。
当時、米沢藩は上杉家が治めていました。処刑されたのは藩主の信任の篤い重臣の甘糟右衛門とその一族42人です。処刑当日、甘糟家の人々は藩の役人たちに先導され、右衛門を先頭に女性や子どもたちも含め、北三原の処刑場に向かいます。沿道に集まった人々に家老が命じます。「ここにおられるのは罪人ではない。高貴な志のために殉じようとされる方々である。土下座をしてお見送りするように」
私の父は、長く東京に住んでいましたが、米沢市に深い思い入れがありました。「米沢、米沢」とよく口にしていました。キリシタン殉教の歴史を聞いて、父のふるさとを誇る気持ちが少しわかったような気がします。徳川幕府の圧力があってもなお、甘糟一族をかばい続けた米沢藩主の上杉家、そして信仰に殉じた甘糟一族。なにか自分の中にも同じDNAが流れているような気がして、ちょっと誇らしい気持ちになりました。
身近な小さなことでも、私の身に起こったことを、不幸や災難で終わらせてしまうのでなく、「かえって」と次に繋がるのだと信じていきたいと思います。