期間限定の希望の人生
- 出演者
- 森田 友明(ハレルヤチャペル滝沢)
- 制作
- PBA太平洋放送協会
- 再生時間
- 5min
- タグ
-
- 死や命について考えているとき
- 元気をもらいたいとき
- 一歩踏み出したいとき
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- アップロード日
- 2023.08.24
- カテゴリ
- 人物・人生
- 聖書箇所
-
[旧約聖書] 伝道者の書 7章2節
- 放送日
- 2023.08.24
「世の光」の時間です。岩手県滝沢市にあるハレルヤチャペルの牧師、森田友明です。
聖書をお読みいたします。伝道者の書7章2節「祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者がそれを心に留めるようになるからだ」
お葬式に行く方がお祝いの席に行くより良いと言うのです。なぜかと言うと、お祝いでは、楽しくて、いつまでも自分は生きると錯覚してしまいますが、葬式では自分にも死があることに気づくからです。
カトリックの修道士たちはラテン語で「メメント・モリ」ということばで挨拶をしていると聞きました。それは、「私たちは死ぬべきものであることを心せよ」という意味です。死は誰にでも来ます。「どうせ死ぬのだからあきらめなさい」というのではなく、「死があるからこそ、今を前向きに生きなさい」と言う意味です。
私は、大学1年の時、十二指腸潰瘍になり、下宿で洗面器いっぱいの血を吐いて入院。点滴で出血は止まりました。その入院中のことです。隣のベッドに40代の男性がいました。全身が黄色くなり、ある夜、血を吐いて止まらず死亡しました。若い奥さんと二人の子どもたちは打ちひしがれていました。私は、死は絶望であると深く印象付けられました。今まで死なんて考えたこともなく、自分はずっと生きると思っていました。
そのようなときに聖書に出会いました。神のひとり子イエス様は、救い主として来てくださいました。イエス様は、すべての人の罪の身代わりとなって裁かれ、十字架で死んでくださいました。そして、復活し、死を打ち破ってくださいました。信じる者は永遠の滅びから永遠のいのちに移るのです。
死が絶望と考えていた時は、人生は死んだら終わりなので、面白おかしく、心の望むままに生きることが良いと思っていました。しかし、死の向こうに約束されたいのちがあることを知ってからは、神が与えてくださったこの期間限定の人生を喜び、楽しみ、神を愛し、人に仕える生き方を求めるようになりました。
期間限定の人生です。死の向こうに約束されたいのちがあります。あなたもイエス様を信じて、しぼまない希望の人生を歩んでみませんか。
聖書をお読みいたします。伝道者の書7章2節「祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者がそれを心に留めるようになるからだ」
お葬式に行く方がお祝いの席に行くより良いと言うのです。なぜかと言うと、お祝いでは、楽しくて、いつまでも自分は生きると錯覚してしまいますが、葬式では自分にも死があることに気づくからです。
カトリックの修道士たちはラテン語で「メメント・モリ」ということばで挨拶をしていると聞きました。それは、「私たちは死ぬべきものであることを心せよ」という意味です。死は誰にでも来ます。「どうせ死ぬのだからあきらめなさい」というのではなく、「死があるからこそ、今を前向きに生きなさい」と言う意味です。
私は、大学1年の時、十二指腸潰瘍になり、下宿で洗面器いっぱいの血を吐いて入院。点滴で出血は止まりました。その入院中のことです。隣のベッドに40代の男性がいました。全身が黄色くなり、ある夜、血を吐いて止まらず死亡しました。若い奥さんと二人の子どもたちは打ちひしがれていました。私は、死は絶望であると深く印象付けられました。今まで死なんて考えたこともなく、自分はずっと生きると思っていました。
そのようなときに聖書に出会いました。神のひとり子イエス様は、救い主として来てくださいました。イエス様は、すべての人の罪の身代わりとなって裁かれ、十字架で死んでくださいました。そして、復活し、死を打ち破ってくださいました。信じる者は永遠の滅びから永遠のいのちに移るのです。
死が絶望と考えていた時は、人生は死んだら終わりなので、面白おかしく、心の望むままに生きることが良いと思っていました。しかし、死の向こうに約束されたいのちがあることを知ってからは、神が与えてくださったこの期間限定の人生を喜び、楽しみ、神を愛し、人に仕える生き方を求めるようになりました。
期間限定の人生です。死の向こうに約束されたいのちがあります。あなたもイエス様を信じて、しぼまない希望の人生を歩んでみませんか。
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