ルカの福音書 132
- 出演者
- 大嶋重徳
- 制作
- PBA太平洋放送協会
- 再生時間
- 5min
- タグ
-
- 疲れているとき
- 不安や恐れを感じているとき
- 孤独や悲しみを覚えるとき
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- アップロード日
- 2023.08.04
- カテゴリ
- 人物・人生
- 聖書箇所
-
[新約聖書] ルカの福音書 6章
- 放送日
- 2023.08.04
「世の光」の時間です。いかがお過ごしでしょうか。大嶋重徳です。新約聖書ルカ6章で、イエス様は人生を生きる幸せについて語ってくださいました。イエス様は「貧しいものは幸い」とおっしゃいました。その人たちは「やがて満ち足りる」「やがて笑うようになる」ここにも「やがて」ということばが出てきます。「やがて」終わりの日に、受ける報いがある。終わりの日、私たちは本当の幸せとは、罪が赦され、確かに永遠のいのちをいただいて、神とともに永遠の慰めの中を生きることではないかと知ることが出来ます。そこでの満足を受け取ることができるのです。
また、私たちの幸せとは、終わりの日のことだけではありません。「貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものです」と言われました。「神の国」とは「神の支配」のことです。イエス様のもたらされようとした、神の支配の実現した社会のことです。イエス様は「すでに」そのお働きを始めてくださり、この地上にはすでに「神の国」が始まっています。
この「平地の説教」が語られた平たい場所には、病の人々が沢山いました。「なぜ自分なのだろうか」「なぜ今なのだろうか」理不尽としか言いようのない出来事に絡め取られ、涙するしかない。その人たちの涙を前にして、イエス様は彼らに触れてくださったのです。神様のぬくもりを伝えてくださったのです。
そして神の国とは、そのように「すでに」イエス様が始めてくださった神の支配を、私たちが自分のものとして生きることです。もしイエス様だったら、自分のそばにいるこの病気の人の肩を抱いてくださったのではないか。その目の涙を拭うハンカチを渡してくださったのではないか。痛い場所に手を置いて、さすってくださっただろう。「貧しい者の幸い」とは、この神の国の実現を生きていく幸せのことです。「いまだ」神の国が実現していないこの世の中の現実に、目を背けることなく、自分の心の平安だけを求めて生きるのでもなく、今自分ができる限りの愛を、生かされているその場所で与えて生きるのです。その時、貧しさは貧しさではない。その時、悲しみは悲しみではない。神が共にいて、触れてくださっている暖かさがそこに生まれるのです。そこで永遠の「やがて」を見つめることが出来るならば、誰にも奪うことの出来ない幸せがあなたにも与えられていく。これが、私たちの幸せです。
また、私たちの幸せとは、終わりの日のことだけではありません。「貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものです」と言われました。「神の国」とは「神の支配」のことです。イエス様のもたらされようとした、神の支配の実現した社会のことです。イエス様は「すでに」そのお働きを始めてくださり、この地上にはすでに「神の国」が始まっています。
この「平地の説教」が語られた平たい場所には、病の人々が沢山いました。「なぜ自分なのだろうか」「なぜ今なのだろうか」理不尽としか言いようのない出来事に絡め取られ、涙するしかない。その人たちの涙を前にして、イエス様は彼らに触れてくださったのです。神様のぬくもりを伝えてくださったのです。
そして神の国とは、そのように「すでに」イエス様が始めてくださった神の支配を、私たちが自分のものとして生きることです。もしイエス様だったら、自分のそばにいるこの病気の人の肩を抱いてくださったのではないか。その目の涙を拭うハンカチを渡してくださったのではないか。痛い場所に手を置いて、さすってくださっただろう。「貧しい者の幸い」とは、この神の国の実現を生きていく幸せのことです。「いまだ」神の国が実現していないこの世の中の現実に、目を背けることなく、自分の心の平安だけを求めて生きるのでもなく、今自分ができる限りの愛を、生かされているその場所で与えて生きるのです。その時、貧しさは貧しさではない。その時、悲しみは悲しみではない。神が共にいて、触れてくださっている暖かさがそこに生まれるのです。そこで永遠の「やがて」を見つめることが出来るならば、誰にも奪うことの出来ない幸せがあなたにも与えられていく。これが、私たちの幸せです。
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