命を与える神
- 出演者
- 大井 満
- 制作
- PBA太平洋放送協会
- 再生時間
- 5min
- タグ
-
- 死や命について考えているとき
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- アップロード日
- 2023.07.29
- カテゴリ
- 人物・人生
- 聖書箇所
-
[新約聖書] ヨハネの福音書 6章40、44、47節
- 放送日
- 2023.07.29
「世の光」の時間です。今週のメッセージを担当しました、大井満です。
私は40年にわたって牧師をしてきました。この春で牧師の働きからはリタイアしましたが、お茶の水聖書学院やキリスト教のお話をする働きを今も続けています。牧師をリタイアして一番変わったことは、深夜や早朝にかかってくる電話を気にしないですむようになったということです。つまり、誤解していただきたくないのですが、教会にかかわる方々の生き死にの問題から解放されたということです。
これまで数えたことはありませんが、何十人もの方々の葬儀をしてきました。病院のICUで病床に横たわる方の死を看取ったこともあります。何度も何度もホスピスに通って、死への備えをしたこともあります。交通事故や心臓の発作など突然の死にも遭遇しました。たくさんの方々の死にかかわらせていただいて言えることは、クリスチャンの死には、もちろん悲しみもありますが、それだけではない平安と希望がはっきりと与えられているということです。
それは、イエス・キリストを信じる人は、永遠の命を与えられているという確信と、やがて復活するという希望を持っているからです。イエス・キリストはおっしゃいました。「わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせることなのです。」(ヨハネの福音書6章40節)。また「わたしはその人を終わりの日によみがえらせます。」(44節)、「まことに、まことに、あなたがたに言います。信じる者は永遠のいのちを持っています。」(47節)ともおっしゃいました。
「信じる者」というのは、イエスがキリスト、つまり救い主であることを信じる人ということです。ただ抽象的に、よくわからないけど神様はいると思うとか、どんな神か分からないけれど何となく信じるということではありません。聖書に書かれている、人としてこの世に来られた神の子イエス・キリストこそ、私の救い主であると信じる者には、この世の命や死を超えた、永遠の命と復活という平安と希望があるのです。
私は40年にわたって牧師をしてきました。この春で牧師の働きからはリタイアしましたが、お茶の水聖書学院やキリスト教のお話をする働きを今も続けています。牧師をリタイアして一番変わったことは、深夜や早朝にかかってくる電話を気にしないですむようになったということです。つまり、誤解していただきたくないのですが、教会にかかわる方々の生き死にの問題から解放されたということです。
これまで数えたことはありませんが、何十人もの方々の葬儀をしてきました。病院のICUで病床に横たわる方の死を看取ったこともあります。何度も何度もホスピスに通って、死への備えをしたこともあります。交通事故や心臓の発作など突然の死にも遭遇しました。たくさんの方々の死にかかわらせていただいて言えることは、クリスチャンの死には、もちろん悲しみもありますが、それだけではない平安と希望がはっきりと与えられているということです。
それは、イエス・キリストを信じる人は、永遠の命を与えられているという確信と、やがて復活するという希望を持っているからです。イエス・キリストはおっしゃいました。「わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせることなのです。」(ヨハネの福音書6章40節)。また「わたしはその人を終わりの日によみがえらせます。」(44節)、「まことに、まことに、あなたがたに言います。信じる者は永遠のいのちを持っています。」(47節)ともおっしゃいました。
「信じる者」というのは、イエスがキリスト、つまり救い主であることを信じる人ということです。ただ抽象的に、よくわからないけど神様はいると思うとか、どんな神か分からないけれど何となく信じるということではありません。聖書に書かれている、人としてこの世に来られた神の子イエス・キリストこそ、私の救い主であると信じる者には、この世の命や死を超えた、永遠の命と復活という平安と希望があるのです。