罪をゆるす神
- 出演者
- 大井 満
- 制作
- PBA太平洋放送協会
- 再生時間
- 5min
- タグ
-
- 一歩踏み出したいとき
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- アップロード日
- 2023.07.24
- カテゴリ
- 人物・人生
- 聖書箇所
-
[新約聖書] 使徒の働き 2章36~38節
- 放送日
- 2023.07.24
「世の光」の時間です。今週のメッセージを担当します、お茶の水聖書学院の教師で、日本キリスト合同教会の大井満です。
ある日曜日に、地方の教会の礼拝に出席しました。その教会の牧師は説教でこんなことを言っていました。「高校生の頃だったか、ふるさとの川が海に注ぐ河口を見ていた。ちょうど大雨の後で海に流れ込む川の水が茶色く濁っており、岸に近い海も茶色くなっていた。これを見ていて、自分はこの茶色く濁った川のように罪に汚れている。しかし、とてつもなく広い海は、罪を赦す神のようで、茶色く濁った水も沖へ進むにつれて、きれいに澄み渡って行くのだ。」とその牧師は語られました。
聖書は確かに私たち人間を罪人だと言います。しかし、それで突き放して、見放したりして、終わりにしてしまうのではありません。私たちの罪を赦してくださる神のこととセットで語っているのです。新約聖書の、使徒の働き2章36節から38節を読みます。「『ですから、イスラエルの全家は、このことをはっきりと知らなければなりません。神が今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。』人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、『兄弟たち、私たちはどうしたらよいでしょうか』と言った。そこで、ペテロは彼らに言った。『それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい』」
これはペテロの説教の最後の部分と、それを聞いた人々との対話なのですが、ここにはっきりと語られているのは、イエス・キリストを十字架につけたのは「あなたがた」であること。しかし、その「あなたがた」も、悔い改めてバプテスマ、つまり洗礼を受けるならば罪が赦されるということです。
あなたがたとは誰でしょうか。ペテロが「あなたがた」と言っているのは、まさにイエスを十字架につけよと叫んだユダヤの人々でした。でも、それは私たちのことでもあるのです。私たちの罪がイエスを十字架につけたからです。「私たちはどうしたらよいでしょうか」という問いを、愛の神様への祈りとしてください。神様が私の罪を赦してくださることを知っていただきたいと思います。
ある日曜日に、地方の教会の礼拝に出席しました。その教会の牧師は説教でこんなことを言っていました。「高校生の頃だったか、ふるさとの川が海に注ぐ河口を見ていた。ちょうど大雨の後で海に流れ込む川の水が茶色く濁っており、岸に近い海も茶色くなっていた。これを見ていて、自分はこの茶色く濁った川のように罪に汚れている。しかし、とてつもなく広い海は、罪を赦す神のようで、茶色く濁った水も沖へ進むにつれて、きれいに澄み渡って行くのだ。」とその牧師は語られました。
聖書は確かに私たち人間を罪人だと言います。しかし、それで突き放して、見放したりして、終わりにしてしまうのではありません。私たちの罪を赦してくださる神のこととセットで語っているのです。新約聖書の、使徒の働き2章36節から38節を読みます。「『ですから、イスラエルの全家は、このことをはっきりと知らなければなりません。神が今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。』人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、『兄弟たち、私たちはどうしたらよいでしょうか』と言った。そこで、ペテロは彼らに言った。『それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい』」
これはペテロの説教の最後の部分と、それを聞いた人々との対話なのですが、ここにはっきりと語られているのは、イエス・キリストを十字架につけたのは「あなたがた」であること。しかし、その「あなたがた」も、悔い改めてバプテスマ、つまり洗礼を受けるならば罪が赦されるということです。
あなたがたとは誰でしょうか。ペテロが「あなたがた」と言っているのは、まさにイエスを十字架につけよと叫んだユダヤの人々でした。でも、それは私たちのことでもあるのです。私たちの罪がイエスを十字架につけたからです。「私たちはどうしたらよいでしょうか」という問いを、愛の神様への祈りとしてください。神様が私の罪を赦してくださることを知っていただきたいと思います。