神の子の声を聞く
- 出演者
- 板倉邦雄
- 制作
- PBA太平洋放送協会
- 再生時間
- 5min
- タグ
-
- 不安や恐れを感じているとき
- 孤独や悲しみを覚えるとき
- 元気をもらいたいとき
- 一歩踏み出したいとき
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- アップロード日
- 2023.07.15
- カテゴリ
- 人物・人生
- 聖書箇所
-
[新約聖書] ヨハネの福音書 5章25節
- 放送日
- 2023.07.15
「世の光」の時間です。いかがお過ごしですか。板倉邦雄です。
今日は「神の子の声を聞く」という題でお話しましょう。
はじめにヨハネの福音書5章25節を朗読します。「まことに、まことに、あなたがたに言います。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。それを聞く者は生きます。」
さて、ここでイエス様が言われる「死人」とか「死んだ人たち」というのは、肉体的に死んだ人のことではありません。生きているけれども死んでいるような人、生きた屍のような人のことです。このような人たちが、神の子イエス・キリストの声を聞く時が来るのです。
生きているけれども死んでいるような人は、どのような人でしょうか?自分の存在価値が分からない人、生きる目的と意味がわからない人、目的地のわからない旅人ほど、さすらい虚しく寂しい孤独の人はいませんね。
しかし、そのような、生きた屍のような人が、神の子の声を聞く時が来るのです。「今がその時です。」とイエス様はおっしゃいました。今とは、「今」、イエス様の声を聞いている人です。今、このラジオを通して、神様であるイエス様のことばを聞いている「今」です。神の子イエス様の声を聞きますと、死んだような人が正気を取り戻すのです。
死んだような人とは、聖書は次のように語っています。罪と悪の中に生活している人、知性も暗く、心は頑固で道徳的な放縦な生活をして、神のいのちから遠く離れた人です。
しかし、このような、死んだような人生を歩いている人も、神の子イエス様の声を聞くとき、生き返ることができます。「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つのことばによって生きるものである」と語ったのは、イエス様ご自身でしたね。
私たちは罪深い人間です。いわゆる死んだような人間です。しかし、神の子イエス様のことばに接して、イエス様の声を聞くとき、信仰が与えられます。そして、聞く人は生きるのです。生きる元気、生きる勇気、生きるやる気が与えられていきます。
聖書のことばです。「信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。」ローマ人への手紙10章17節
今日は「神の子の声を聞く」という題でお話しましょう。
はじめにヨハネの福音書5章25節を朗読します。「まことに、まことに、あなたがたに言います。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。それを聞く者は生きます。」
さて、ここでイエス様が言われる「死人」とか「死んだ人たち」というのは、肉体的に死んだ人のことではありません。生きているけれども死んでいるような人、生きた屍のような人のことです。このような人たちが、神の子イエス・キリストの声を聞く時が来るのです。
生きているけれども死んでいるような人は、どのような人でしょうか?自分の存在価値が分からない人、生きる目的と意味がわからない人、目的地のわからない旅人ほど、さすらい虚しく寂しい孤独の人はいませんね。
しかし、そのような、生きた屍のような人が、神の子の声を聞く時が来るのです。「今がその時です。」とイエス様はおっしゃいました。今とは、「今」、イエス様の声を聞いている人です。今、このラジオを通して、神様であるイエス様のことばを聞いている「今」です。神の子イエス様の声を聞きますと、死んだような人が正気を取り戻すのです。
死んだような人とは、聖書は次のように語っています。罪と悪の中に生活している人、知性も暗く、心は頑固で道徳的な放縦な生活をして、神のいのちから遠く離れた人です。
しかし、このような、死んだような人生を歩いている人も、神の子イエス様の声を聞くとき、生き返ることができます。「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つのことばによって生きるものである」と語ったのは、イエス様ご自身でしたね。
私たちは罪深い人間です。いわゆる死んだような人間です。しかし、神の子イエス様のことばに接して、イエス様の声を聞くとき、信仰が与えられます。そして、聞く人は生きるのです。生きる元気、生きる勇気、生きるやる気が与えられていきます。
聖書のことばです。「信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。」ローマ人への手紙10章17節
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