いのちの回復
- 出演者
- 山本陽一郎
- 制作
- PBA 太平洋放送協会
- 再生時間
- 5min
- タグ
-
- 死や命について考えているとき
- 眠れないとき
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- アップロード日
- 2022.10.08
- カテゴリ
- 人物・人生
- 聖書箇所
-
[新約聖書] ヨハネの福音書 6章51節
- 放送日
- 2022.10.08
「世の光」の時間です。いかがお過ごしですか。山本陽一郎です。
幼い頃「手のひらを太陽に」という歌をよく歌いました。「みみずだって おけらだって あめんぼだって みんなみんな 生きているんだ 友だちなんだ」と。みみずが苦手だった私は、友だちだと言われてちょっと弱りましたが、確かにみんな、単なる物質ではなく、生きています。考えれば考えるほど、いのちって不思議で深いものですよね。
聖書は、この世界は神様によって造られたと語ります。中でも、人間は神様と特別に親しい、いのちに満ちた関係の中で生きることができる存在として造られました。ところが、神様に背いて罪を犯した結果、その神様との交わりを失ってしまったのです。それで人はいのちを失い、死にゆくものとなりました。
恐らくほとんどの人は、「いや、自分は生きている」と思うことでしょう。そうです、確かに生きています。趣味も仕事もお金もあるかもしれません。欲しかったものを手に入れた人もいるでしょう。それでも、食べても食べても、飲んでも飲んでも、この心はやっぱりまた飢え渇くのです。虚しさや寂しさを消せません。それは、私たち人間が、本来の神様とのいのちの交わりを失ってしまったからです。そして、いつか死ぬ時が誰にも来ます。
けれども、それでおしまいではないのです。イエス・キリストによって、いのちの交わりが回復されたからです。
「わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます」(ヨハネの福音書6章51節)
これは、イエス様がご自分をパンにたとえたことばです。どうして神のひとり子イエス・キリストがこの世に来られたのか。それは、私たちに、決して消えないいのちの喜びを与えるためです。このお方を救い主として受け入れる時、私たちは、失っていた神様との生きた交わりを回復します。そして、このいのちは、私たちにとって最大の敵だと言える死をも超えます。
この「生けるパン」に、賞味期限の日付はありません。永遠だからです。あなたにも、このパンの素晴らしい味わいを、決して消えることのない平安と喜びを、ご自分のものとしていただきたいと願っています。
幼い頃「手のひらを太陽に」という歌をよく歌いました。「みみずだって おけらだって あめんぼだって みんなみんな 生きているんだ 友だちなんだ」と。みみずが苦手だった私は、友だちだと言われてちょっと弱りましたが、確かにみんな、単なる物質ではなく、生きています。考えれば考えるほど、いのちって不思議で深いものですよね。
聖書は、この世界は神様によって造られたと語ります。中でも、人間は神様と特別に親しい、いのちに満ちた関係の中で生きることができる存在として造られました。ところが、神様に背いて罪を犯した結果、その神様との交わりを失ってしまったのです。それで人はいのちを失い、死にゆくものとなりました。
恐らくほとんどの人は、「いや、自分は生きている」と思うことでしょう。そうです、確かに生きています。趣味も仕事もお金もあるかもしれません。欲しかったものを手に入れた人もいるでしょう。それでも、食べても食べても、飲んでも飲んでも、この心はやっぱりまた飢え渇くのです。虚しさや寂しさを消せません。それは、私たち人間が、本来の神様とのいのちの交わりを失ってしまったからです。そして、いつか死ぬ時が誰にも来ます。
けれども、それでおしまいではないのです。イエス・キリストによって、いのちの交わりが回復されたからです。
「わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます」(ヨハネの福音書6章51節)
これは、イエス様がご自分をパンにたとえたことばです。どうして神のひとり子イエス・キリストがこの世に来られたのか。それは、私たちに、決して消えないいのちの喜びを与えるためです。このお方を救い主として受け入れる時、私たちは、失っていた神様との生きた交わりを回復します。そして、このいのちは、私たちにとって最大の敵だと言える死をも超えます。
この「生けるパン」に、賞味期限の日付はありません。永遠だからです。あなたにも、このパンの素晴らしい味わいを、決して消えることのない平安と喜びを、ご自分のものとしていただきたいと願っています。
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