なぜ十字架なのか|イースタSP
- 出演者
- 矢木良雄
- 制作
- PBA 太平洋放送協会
- 再生時間
- 5min
- タグ
-
- 不安や恐れを感じているとき
- 孤独や悲しみを覚えるとき
- 愛する人を失ったとき
- イースター
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- アップロード日
- 2022.04.15
- カテゴリ
- 人物・人生
- 聖書箇所
-
[新約聖書] ヨハネの福音書 13章
[新約聖書] ヨハネの手紙第一 3章
- 放送日
- 2022.04.15
「世の光」の時間です。お元気でお過ごしですか。矢木良雄です。
今日は金曜日、イエス・キリストが十字架につけられた記念日になります。「なぜ十字架なのですか」は、良く聞かれる質問です。
なぜ十字架なのか、いったい十字架の意味とは何なのか。答えはあります。それは愛です。
ヨハネの福音書13章の書き始めに「イエスは…ご自分の時が来たことを知っておられた。そして、世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。」とあります。この最後の部分は、文語訳の聖書では「極みまでこれを愛し給へり」となっていました。共同訳では「愛し抜かれた」です。気持ち的には文語の「極みまで」が、言いたいことが伝わってくる気がします。
ヨハネ第一の手紙3章の初めに「私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったか…事実、私たちは神の子どもです。」と、ここでも「すばらしい愛を与えてくださった」と記されています。
13世紀の神学者で、ローマ教会の枢機卿であったボナヴェントゥラがこんな言葉を残しています。「わが愛するイエス様。教えてください。全世界の救いのためには、いとも貴い御血の一滴で十分であったのに、なぜあなたはみからだの御血を残らず流し尽くされたのですか。主よ、私は知っています。それは、どんなに深く私を愛しているか、それを示してくださるのだと。」
確かにそうだと思います。神のひとり子の流される血、その一滴で十分だったはずです。でも十字架上でイエス様はすべての血を流されました。それは私たちを極限まで愛するためでした。
本来、十字架とは、ローマ帝国の残酷な死刑の道具でした。何時間も、時には何日もかけて、最大限の苦痛を強いながら、確実に死に向かわせるのです。教会は、この残虐行為の象徴と見える十字架を、礼拝堂のてっぺんに掲げてきました。それはこれ以上に神様の愛を表すものはないからです。
神様の愛の極み、すべてを注ぎだした愛を、見える形で表したのが十字架なのです。だから、私たちは「愛されている」と確信できるのです。
今日は金曜日、イエス・キリストが十字架につけられた記念日になります。「なぜ十字架なのですか」は、良く聞かれる質問です。
なぜ十字架なのか、いったい十字架の意味とは何なのか。答えはあります。それは愛です。
ヨハネの福音書13章の書き始めに「イエスは…ご自分の時が来たことを知っておられた。そして、世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。」とあります。この最後の部分は、文語訳の聖書では「極みまでこれを愛し給へり」となっていました。共同訳では「愛し抜かれた」です。気持ち的には文語の「極みまで」が、言いたいことが伝わってくる気がします。
ヨハネ第一の手紙3章の初めに「私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったか…事実、私たちは神の子どもです。」と、ここでも「すばらしい愛を与えてくださった」と記されています。
13世紀の神学者で、ローマ教会の枢機卿であったボナヴェントゥラがこんな言葉を残しています。「わが愛するイエス様。教えてください。全世界の救いのためには、いとも貴い御血の一滴で十分であったのに、なぜあなたはみからだの御血を残らず流し尽くされたのですか。主よ、私は知っています。それは、どんなに深く私を愛しているか、それを示してくださるのだと。」
確かにそうだと思います。神のひとり子の流される血、その一滴で十分だったはずです。でも十字架上でイエス様はすべての血を流されました。それは私たちを極限まで愛するためでした。
本来、十字架とは、ローマ帝国の残酷な死刑の道具でした。何時間も、時には何日もかけて、最大限の苦痛を強いながら、確実に死に向かわせるのです。教会は、この残虐行為の象徴と見える十字架を、礼拝堂のてっぺんに掲げてきました。それはこれ以上に神様の愛を表すものはないからです。
神様の愛の極み、すべてを注ぎだした愛を、見える形で表したのが十字架なのです。だから、私たちは「愛されている」と確信できるのです。
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