「清く正しく美しく」はもう古い?
- 出演者
- 羽鳥頼和
- 制作
- PBA 太平洋放送協会
- 再生時間
- 5min
- タグ
-
- 疲れているとき
- 不安や恐れを感じているとき
- 一歩踏み出したいとき
もっと詳しく見る
- アップロード日
- 2022.04.02
- カテゴリ
- 人物・人生
- 聖書箇所
-
[旧約聖書] 詩篇 119篇9節
- 放送日
- 2022.04.02
「世の光」の時間です。お聴きくださりありがとうございます。羽鳥頼和です。
今年、私は2つの教会の成人祝福式に出席することができました。式の中で、聖書のみことばが読まれ、祝福の祈りがささげられました。
成人式をおこなう時、私は、いつも詩篇119篇9節のこのみことばを思い起こします。
「どのようにして若い人は 自分の道を 清く保つことができるでしょうか。
あなたのみことばのとおりに 道を守ることです。」
「自分の道を清く保つ」ということばから、私は「清く正しく美しく」ということばを思い出しました。「清く正しく美しく」とは、宝塚歌劇団の創始者である小林一三(こばやしいちぞう)氏の遺訓であるといわれています。
この「清く正しく美しく」生きることは、時代遅れでしょうか。そんなことはないと、私は思います。
実は聖書で使われている「清い」ということばには、この「清く正しく美しく」という意味が含まれています。さらに、悪い行いを取り除くとか、悪事を働くことをやめるとか、罪を離れて、清くなるという意味で用いられたり、汚れがないという意味で用いられることばです。
聖書は、自分の道を清く保つためには、「あなたのみことばのとおりに道を守ることです。」と教えています。これはどういうことでしょう。
高村光太郎の「道程」
「僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る」
自分で道を切り開くように思えますが、彼は自らの歩みについて、自然に期待し願っています。光太郎にとって自然は父であり、「僕を一人立ちさせる」ものです。その自然に願うのです。「僕から目を離さないで守る事をせよ」父なる自然の「気魄を僕に充たせ」と。
ところが聖書は、父なる存在である自然ではなく、父なる神のみことばを守り行うことによって、自分の道を清く保つことができると教えています。
このような生き方は、昔も今も変わらない神が教えておられる良い生き方です。
今年、私は2つの教会の成人祝福式に出席することができました。式の中で、聖書のみことばが読まれ、祝福の祈りがささげられました。
成人式をおこなう時、私は、いつも詩篇119篇9節のこのみことばを思い起こします。
「どのようにして若い人は 自分の道を 清く保つことができるでしょうか。
あなたのみことばのとおりに 道を守ることです。」
「自分の道を清く保つ」ということばから、私は「清く正しく美しく」ということばを思い出しました。「清く正しく美しく」とは、宝塚歌劇団の創始者である小林一三(こばやしいちぞう)氏の遺訓であるといわれています。
この「清く正しく美しく」生きることは、時代遅れでしょうか。そんなことはないと、私は思います。
実は聖書で使われている「清い」ということばには、この「清く正しく美しく」という意味が含まれています。さらに、悪い行いを取り除くとか、悪事を働くことをやめるとか、罪を離れて、清くなるという意味で用いられたり、汚れがないという意味で用いられることばです。
聖書は、自分の道を清く保つためには、「あなたのみことばのとおりに道を守ることです。」と教えています。これはどういうことでしょう。
高村光太郎の「道程」
「僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る」
自分で道を切り開くように思えますが、彼は自らの歩みについて、自然に期待し願っています。光太郎にとって自然は父であり、「僕を一人立ちさせる」ものです。その自然に願うのです。「僕から目を離さないで守る事をせよ」父なる自然の「気魄を僕に充たせ」と。
ところが聖書は、父なる存在である自然ではなく、父なる神のみことばを守り行うことによって、自分の道を清く保つことができると教えています。
このような生き方は、昔も今も変わらない神が教えておられる良い生き方です。
コメント
番組に対するコメントはまだありません。ぜひ感想をお願いいたします。