自己義認の誘惑

出演者
関根弘興
制作
PBA 太平洋放送協会
再生時間
5min
タグ
  • 不安や恐れを感じているとき
  • 孤独や悲しみを覚えるとき
  • 人を許すことが出来ないとき

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アップロード日
2022.02.21
カテゴリ
人物・人生
聖書箇所
[新約聖書] ルカの福音書 18章14節
放送日
2022.02.21

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「世の光」の時間です。お元気でお過ごしでしょうか。関根弘興です。
私たちは、ときどき気付かないうちに「自分は正しい」でも「相手は悪い」という態度を持ってしまいがちです。イエス様があるとき、こんなたとえ話をされました。
2人の人が、祈るために宮に上っていきました。ひとりは当時厳格に宗教的な戒めを守っていたパリサイ人で、もうひとりはユダヤの社会からは嫌われ、罪人呼ばわりされていた取税人でした。パリサイ人は心の中でこう祈り始めたのです。「神様。私がほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でないこと、そして、この取税人のようでないことを感謝します。私は断食し、きちんと献金も献げております。」
この人は、自分が神様の前では、いかに正しいかをまるで自慢するかのように、祈っていたというのです。
一方、取税人はどうだったでしょう。遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて「神様、罪人の私をあわれんでください。」こう祈ったと言うのです。この取税人は、「目を天に向けようともせず」と記されています。
よく「あの人には顔向けできない」という表現をすることがありますが、この取税人は「神様に顔向けできない」そんな思いを持っていたのでしょう。取税人は「私は罪人です」「神様、あわれんでください」と正直に祈りました。
さて、イエス様は何と言われたでしょうか。ルカの福音書18章14節に「あなたがたに言いますが、義と認められて家に帰ったのは、あのパリサイ人ではなく、この人です。だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです。」
こう言われたのです。
この取税人は、神様の前に正しいと認められるためにいったい何をしたでしょう。立派なことをしましたか。豊かな実を結びましたか。その結果として義と認められたのでしょうか。違いますね。この人はただ、自分が神様の前で正直に罪人であること認め、罪の赦しと神様と真っ直ぐな関わりを持って歩んでいきたい、と願っただけでした。
神様の前で義と認められるというのは、私たちの行いや功績によるのではありません。神様が私たちを愛してくださっていますから、私たちが神様の前で自分の正直な姿を認め、祈るとき、神様は恵みとあわれみによって、赦し、神様の御前で正しい者と認めてくださるのです。

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