クレネ人シモン その後
- 出演者
- 関根弘興、江橋摩美
- 制作
- PBA 太平洋放送協会
- 再生時間
- 5min
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- アップロード日
- 2021.02.11
- カテゴリ
- 人物・人生
- 聖書箇所
-
[新約聖書] マルコの福音書 15章
- 放送日
- 2021.02.11
「世の光」の時間です。お元気でお過ごしでしょうか。関根弘興です。
イエス・キリストは、十字架を背負い、道の途中で何度も何度も倒れては立ち上がり、容赦のない兵隊の罵声を浴びせられながら、歩いて行かれたことでしょう。その時でした。ローマ兵は一人の男を無理やり引っ張ってきて、イエス様の十字架を背負わせたのです。その男はシモンという名のクレネ人でした。
実は、このシモンについては、どの福音書を見ても、イエス様の代わりに十字架を担いだことしか書かれていません。しかしマルコの福音書には、このシモンが、アレキサンデルとルポスとの父であると、わざわざ記しているのです。ですから、この福音書を読んだ人たちの多くが、シモンの息子であるアレキサンデルとルポスという兄弟を、よく知っていたということになりますね。
後に、新約聖書の多くの手紙を記したパウロが、ローマの教会にあてた手紙にこんな一文が記されています。「主にあって選ばれた人ルポスによろしく。また彼と私との母によろしく。」
ここに出てくるルポスが、十字架を担いだシモンの息子ルポスではないかと考えられるのです。つまり、イエス様の十字架を背負ったシモンの息子ルポスが、今はローマにいる、そのお母さん、つまりシモンの奥さんですよね。その奥さんが、パウロを世話していた人だというわけです。このことを考えると、シモンがエルサレムで、十字架を無理やり背負わされた出来事が、後に、家族がクリスチャンになっていく大きな転機となっていったと考えられるのです。
シモンは最初、自分の身の分を嘆いたかもしれません。しかし、十字架を背負わされたシモンは、傍らを歩いておられるイエス様を見ながら、このイエスとは一体何者なんだろう。大きな罪を犯したようには見えないし、ののしられても、あざけられても、憎しみの眼差しを向けるわけではない。一体、どういうお方なのだろう。そんな風に考えたでしょう。彼は、十字架につけられたイエス様の姿をじっと見つめていたのでしょう。十字架でイエス様が言われたことばを、耳にしたはずです。
それに、イエス様を十字架につけたローマの百人隊長は、「この方はまことに神の子であった」というのを聞いて、シモンも同じような思いを持ったにちがいありません。そして、イエス様を救い主として信じ、信仰が家族にまで広がったとも言えるのです。人生最悪の日が、救い主に出会う日となっていたのですね。
イエス・キリストは、十字架を背負い、道の途中で何度も何度も倒れては立ち上がり、容赦のない兵隊の罵声を浴びせられながら、歩いて行かれたことでしょう。その時でした。ローマ兵は一人の男を無理やり引っ張ってきて、イエス様の十字架を背負わせたのです。その男はシモンという名のクレネ人でした。
実は、このシモンについては、どの福音書を見ても、イエス様の代わりに十字架を担いだことしか書かれていません。しかしマルコの福音書には、このシモンが、アレキサンデルとルポスとの父であると、わざわざ記しているのです。ですから、この福音書を読んだ人たちの多くが、シモンの息子であるアレキサンデルとルポスという兄弟を、よく知っていたということになりますね。
後に、新約聖書の多くの手紙を記したパウロが、ローマの教会にあてた手紙にこんな一文が記されています。「主にあって選ばれた人ルポスによろしく。また彼と私との母によろしく。」
ここに出てくるルポスが、十字架を担いだシモンの息子ルポスではないかと考えられるのです。つまり、イエス様の十字架を背負ったシモンの息子ルポスが、今はローマにいる、そのお母さん、つまりシモンの奥さんですよね。その奥さんが、パウロを世話していた人だというわけです。このことを考えると、シモンがエルサレムで、十字架を無理やり背負わされた出来事が、後に、家族がクリスチャンになっていく大きな転機となっていったと考えられるのです。
シモンは最初、自分の身の分を嘆いたかもしれません。しかし、十字架を背負わされたシモンは、傍らを歩いておられるイエス様を見ながら、このイエスとは一体何者なんだろう。大きな罪を犯したようには見えないし、ののしられても、あざけられても、憎しみの眼差しを向けるわけではない。一体、どういうお方なのだろう。そんな風に考えたでしょう。彼は、十字架につけられたイエス様の姿をじっと見つめていたのでしょう。十字架でイエス様が言われたことばを、耳にしたはずです。
それに、イエス様を十字架につけたローマの百人隊長は、「この方はまことに神の子であった」というのを聞いて、シモンも同じような思いを持ったにちがいありません。そして、イエス様を救い主として信じ、信仰が家族にまで広がったとも言えるのです。人生最悪の日が、救い主に出会う日となっていたのですね。