神のものは神に
- 出演者
- 関根弘興
- 制作
- PBA 太平洋放送協会
- 再生時間
- 5min
もっと詳しく見る
- アップロード日
- 2019.11.08
- カテゴリ
- 人物・人生
- 放送日
- 2019.11.08
世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか。関根弘興です。
イエス・キリストのもとに、言葉の罠をかけようとやってきた宗教家たちがいました。彼らはこういう質問をしたんですね。「税金をカイザルに納めることは、律法にかなっていることでしょうか。かなっていないことでしょうか。」これは、イエスと答えても、ノーと答えても、イエス様を失墜させることができる質問でした。
しかしイエス様は、その企みをご存じでした。イエス様はこうお答えになったんです。「カイザルのものはカイザルに。神のものは神に返しなさい」と。
私たちは、二つの世界に属しているんですね。一つは、それぞれが実際に住んでいる場所です。私は神奈川県に住んでいます。ですから、神奈川県民としての権利とか義務を持って生活し、もちろん税金も払っているわけです。神様を信じ生きるということは、この世との関係はどうでもいい、この世と隔絶して生きていくことだということではないんですね。それどころか、社会の一員として生活し、「カイザルものはカイザルに」と言われているように、それぞれの義務を果たしつつ生きることは、聖書でお教えられているんです。
しかしイエス様は、「神のものは神に返しなさい」とも言われました。新約聖書の黙示録4章11節というところには、神様の前で、礼拝を献げる人々の言葉が記されています。「主よ、私たちの神よ。あなたこそ栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方。あなたが万物を創造されました。みこころのゆえに、それらは存在し、また創造されたのです。」このように書かれています。
礼拝されるべき神様は、愛と恵みと真実に満ちた三位一体の神様だけです。もし、人や物が礼拝されるなら、それは神様に返されるべきものが、返されていないということになるんですね。当時のローマ皇帝カイザルは、広大な地域の支配者でした。人々は命令に従い、税金を納め、法律に従う必要がありました。しかし彼らは、皇帝礼拝が義務づけられた時、どんな迫害を受けても、断固として拒否したのです。しかし、クリスチャンたちは、皇帝礼拝が義務づけられた時、どんな迫害を受けても断固として拒否していきました。なぜなら、礼拝は神様だけに献げられるものだからです。
「神のものは神に返す」とは、礼拝すべき方をしっかりと心に据え、賛美を、そして感謝を、そして祈りを、そして信仰の告白を献げていく、そんな歩みでもあるんですね。
イエス・キリストのもとに、言葉の罠をかけようとやってきた宗教家たちがいました。彼らはこういう質問をしたんですね。「税金をカイザルに納めることは、律法にかなっていることでしょうか。かなっていないことでしょうか。」これは、イエスと答えても、ノーと答えても、イエス様を失墜させることができる質問でした。
しかしイエス様は、その企みをご存じでした。イエス様はこうお答えになったんです。「カイザルのものはカイザルに。神のものは神に返しなさい」と。
私たちは、二つの世界に属しているんですね。一つは、それぞれが実際に住んでいる場所です。私は神奈川県に住んでいます。ですから、神奈川県民としての権利とか義務を持って生活し、もちろん税金も払っているわけです。神様を信じ生きるということは、この世との関係はどうでもいい、この世と隔絶して生きていくことだということではないんですね。それどころか、社会の一員として生活し、「カイザルものはカイザルに」と言われているように、それぞれの義務を果たしつつ生きることは、聖書でお教えられているんです。
しかしイエス様は、「神のものは神に返しなさい」とも言われました。新約聖書の黙示録4章11節というところには、神様の前で、礼拝を献げる人々の言葉が記されています。「主よ、私たちの神よ。あなたこそ栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方。あなたが万物を創造されました。みこころのゆえに、それらは存在し、また創造されたのです。」このように書かれています。
礼拝されるべき神様は、愛と恵みと真実に満ちた三位一体の神様だけです。もし、人や物が礼拝されるなら、それは神様に返されるべきものが、返されていないということになるんですね。当時のローマ皇帝カイザルは、広大な地域の支配者でした。人々は命令に従い、税金を納め、法律に従う必要がありました。しかし彼らは、皇帝礼拝が義務づけられた時、どんな迫害を受けても、断固として拒否したのです。しかし、クリスチャンたちは、皇帝礼拝が義務づけられた時、どんな迫害を受けても断固として拒否していきました。なぜなら、礼拝は神様だけに献げられるものだからです。
「神のものは神に返す」とは、礼拝すべき方をしっかりと心に据え、賛美を、そして感謝を、そして祈りを、そして信仰の告白を献げていく、そんな歩みでもあるんですね。