誰が一番偉いか⑤
- 出演者
- 大嶋重徳
- 制作
- PBA 太平洋放送協会
- 再生時間
- 5min
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- アップロード日
- 2025.10.24
- カテゴリ
- 人物・人生
- 聖書箇所
-
[新約聖書] ルカの福音書 9章
- 放送日
- 2025.10.24
「世の光」の時間です。いかがお過ごしでしょうか。大嶋重徳です。今週は聖書のルカ福音書9章から学んできました。弟子たちが「誰が一番偉いか」という議論を始めたことを、イエス様が心の内を見抜かれたことが記されています。そしてイエス様は「だれでも、このような子どもを、わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです」とおっしゃいました。「私の名の故に子どもを受け入れる」という「名の故に」とは「名代」という意味合いがあります。「その名を持つ本人になり代わって」という「代理」を意味することばです。見向きもされない小さな子どもをイエス・キリストの名代、代理として、イエス様本人であるかのように、「迎え」て、もてなしなさいという意味です。
今日もイエス様は「価値がない」とされる存在の手を取って、「ご自分の側に立たせて」おられます。つまり今日もイエス様がおられる場所は、「価値がない」とされる者のそばだということです。そして「自分こそ偉い」と勝ち誇っている者の側に、「私はいない」と言われます。
私たちは「偉くなっていないだろうか」と問い直したいと思います。「足が速い」と誇っている時、「足が遅い」者の気持ちはわかりません。そこでどれだけ傷つくか、傷つく者の気持ちがわからない。もちろん「足が速い」ことは良いことです。一生懸命努力することも良いことです。しかし人間を測る秤が、何かの能力になってしまう時、その物差しに乗らない人たちをどれほど傷つけてしまうか。本当に偉い人はその想像力を持つ人なのです。
お腹が痛いと自然と手で暖めるようにかばいます。そこが守られるように、他の部分も体を動かします。弱い場所から体の動きを考えていくのです。傷んでいる場所の痛みがさらに増すことのないように、体全体で助け合うのです。私たちの人生も、力のある者たちに心地良い場所を作ろうとするのではなく、子どもたちの場所から、歳を重ねた方々の場所から、ものを考えていく社会こそが、「偉い社会」です。もちろん人間は子どもであれど、お年寄りであれど同じく罪人です。しかし誰一人この世界で「偉くなってしまわない」ために、イエス様のおられる「小さな」ところに立つように、イエス様は促されるのです。そしてその場所にいつもイエス様は一緒にいてくださるのです。
今日もイエス様は「価値がない」とされる存在の手を取って、「ご自分の側に立たせて」おられます。つまり今日もイエス様がおられる場所は、「価値がない」とされる者のそばだということです。そして「自分こそ偉い」と勝ち誇っている者の側に、「私はいない」と言われます。
私たちは「偉くなっていないだろうか」と問い直したいと思います。「足が速い」と誇っている時、「足が遅い」者の気持ちはわかりません。そこでどれだけ傷つくか、傷つく者の気持ちがわからない。もちろん「足が速い」ことは良いことです。一生懸命努力することも良いことです。しかし人間を測る秤が、何かの能力になってしまう時、その物差しに乗らない人たちをどれほど傷つけてしまうか。本当に偉い人はその想像力を持つ人なのです。
お腹が痛いと自然と手で暖めるようにかばいます。そこが守られるように、他の部分も体を動かします。弱い場所から体の動きを考えていくのです。傷んでいる場所の痛みがさらに増すことのないように、体全体で助け合うのです。私たちの人生も、力のある者たちに心地良い場所を作ろうとするのではなく、子どもたちの場所から、歳を重ねた方々の場所から、ものを考えていく社会こそが、「偉い社会」です。もちろん人間は子どもであれど、お年寄りであれど同じく罪人です。しかし誰一人この世界で「偉くなってしまわない」ために、イエス様のおられる「小さな」ところに立つように、イエス様は促されるのです。そしてその場所にいつもイエス様は一緒にいてくださるのです。
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