誰が一番偉いか①
- 出演者
- 大嶋重徳
- 制作
- PBA 太平洋放送協会
- 再生時間
- 5min
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- アップロード日
- 2025.10.20
- カテゴリ
- 人物・人生
- 聖書箇所
-
[新約聖書] ルカの福音書 9章
- 放送日
- 2025.10.20
「世の光」の時間です。いかがお過ごしでしょうか。大嶋重徳です。今週は聖書のルカ福音書9章から学びます。
イエス様には12人の弟子がいました。「弟子たちの間で、だれが一番偉いかという議論が持ち上がった」と聖書に記されています。人間が集まるところには、いつもいさかいが起こります。議論したとありますが、そんなことを話し合うのは恥ずかしいし、イエス様に叱られることなど分かっていたでしょう。イエス様のいないところで、しかし他の弟子たちの耳にも入る声で彼らは「誰が一番偉いのか」と話していたのです。誰もが気になる話題です。「自分はどうなんだろう」と考えます。
人間を苦しめ続けるテーマ。それは「誰かと比べる」比較です。人は歴史が始まってずっと比較というテーマで苦しみ続けています。比較の苦しみは子どもの頃から始まります。きょうだいがいるならば、「きょうだいと比べられる」しんどさがあります。また子どもの頃の体格の違い、体力の違い、経験の違いによって差が付けられます。子どもの頃は残酷です。平気で「そんな事もできないの?」と意地悪なことば、辛辣なことばが飛び交います。
しかしイエス様は、「彼らの心にある考えを知り」、弟子たちにこの後語られます。イエス様は比較に苦しむ人間の心を知っていてくださいます。私たちは自分で自分の心にある思いを、ことばに出来ない悔しさを持っていますし、ため息と涙しか出ない時があります。しかしイエス様は私たちがことばに出来ない時にも、私たちの心にある考えを知っていてくださるのです。どれだけ心強いことでしょうか。しかし、自分の心にある考えを誰かに知られるならば、恥ずかしい思いがします。なぜなら比較の感情はイエス様にも知って欲しくはない思いであるからです。しかしこの比較から来る恥ずかしい心も、いつもイエス様にはバレています。小さな子どもが悪いことをしようとする時、チラッと親の顔を見ます。そして目が合うと「バレた」という顔をして止めます。今日私たちは自分の考えの恥ずかしい部分も、イエス様と目を合わせる時、バレていることが分かります。そしてイエス様と目が合って、この恥ずかしさを止められるのです。今週は皆さんとルカ9章から、比較をテーマに学んでいきたいと思います。
イエス様には12人の弟子がいました。「弟子たちの間で、だれが一番偉いかという議論が持ち上がった」と聖書に記されています。人間が集まるところには、いつもいさかいが起こります。議論したとありますが、そんなことを話し合うのは恥ずかしいし、イエス様に叱られることなど分かっていたでしょう。イエス様のいないところで、しかし他の弟子たちの耳にも入る声で彼らは「誰が一番偉いのか」と話していたのです。誰もが気になる話題です。「自分はどうなんだろう」と考えます。
人間を苦しめ続けるテーマ。それは「誰かと比べる」比較です。人は歴史が始まってずっと比較というテーマで苦しみ続けています。比較の苦しみは子どもの頃から始まります。きょうだいがいるならば、「きょうだいと比べられる」しんどさがあります。また子どもの頃の体格の違い、体力の違い、経験の違いによって差が付けられます。子どもの頃は残酷です。平気で「そんな事もできないの?」と意地悪なことば、辛辣なことばが飛び交います。
しかしイエス様は、「彼らの心にある考えを知り」、弟子たちにこの後語られます。イエス様は比較に苦しむ人間の心を知っていてくださいます。私たちは自分で自分の心にある思いを、ことばに出来ない悔しさを持っていますし、ため息と涙しか出ない時があります。しかしイエス様は私たちがことばに出来ない時にも、私たちの心にある考えを知っていてくださるのです。どれだけ心強いことでしょうか。しかし、自分の心にある考えを誰かに知られるならば、恥ずかしい思いがします。なぜなら比較の感情はイエス様にも知って欲しくはない思いであるからです。しかしこの比較から来る恥ずかしい心も、いつもイエス様にはバレています。小さな子どもが悪いことをしようとする時、チラッと親の顔を見ます。そして目が合うと「バレた」という顔をして止めます。今日私たちは自分の考えの恥ずかしい部分も、イエス様と目を合わせる時、バレていることが分かります。そしてイエス様と目が合って、この恥ずかしさを止められるのです。今週は皆さんとルカ9章から、比較をテーマに学んでいきたいと思います。
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