キリストの言は分争となる
- 出演者
- 板倉邦雄
- 制作
- PBA 太平洋放送協会
- 再生時間
- 5min
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- アップロード日
- 2025.09.23
- カテゴリ
- 人物・人生
- 聖書箇所
-
[新約聖書] ヨハネの福音書 10章19-21節
[新約聖書] コリント人への手紙第一 1章18節
- 放送日
- 2025.09.23
「世の光」の時間です。いかがお過ごしですか。板倉邦雄です。
今日は「キリストの言は分争となる」という題でお話しましょう。キリストの語られる言(ことば)は、いつの時代にも人々の間に分争と分裂を巻き起こしてきました。今日もその分争は続いています。ヨハネの福音書10章19節~21節です。
さて、イエス様の語られたことばによって、ユダヤ人の間で再び分争が生じたのです。イエス様のことばとは、10章の始めからのことばでした。「わたしは羊の門である」とか「わたしはよい羊飼いである。よい羊飼いは、羊のために命を捨てる」などと語ってきました。そしてついに一つの群れ、一つの羊飼いとなるであろうとユダヤ人たちに対してイエス様は語りました。それからイエス様のことばを聞いて、ユダヤ人の多くの人々の間で言い争いが始まったのです。「イエスは悪霊に取りつかれて気が狂っているんだ。どうしてあなたがたはそんな気がふれた人の言うことを聞くのか。」すると、他の人々は反論して言いました。「イエス様のことばは、悪霊に取りつかれた者のことばではない。悪霊は目の見えない人の目を開けることがどうしてできるか。」
このようなイエス様のことばに対する分争は、歴史を貫いて今日まで続いてきました。十字架のことばは、私たちを右と左に分けてきたのです。十字架のことばは、ある人には愚かです。「キリスト信者は愚者の楽園だよ」と酷評した学者たちもいました。「十字架による罪の赦し?からだの復活と永遠のいのちだって?キリストの再臨を信じて従うキリスト信徒たちは愚者の楽園で夢見る者でしかない」と酷評するのです。
他方、イエス様のことばを神のことばと信じて従い、自分の生涯をいのちまでイエス様のためにささげる人たちもいるのです。さて、翻って私たちはイエス様のことばを聞いて、どちらに分かれるでしょうか。イエス様の十字架のことばを前にして、右に行きますか、それとも左でしょうか。伝道者パウロはギリシャのコリント教会の人々にこう書き送りました。「十字架のことばは、滅び行く者には愚かであるが、救いにあずかる私たちには神の力である。」
今日は「キリストの言は分争となる」という題でお話しましょう。キリストの語られる言(ことば)は、いつの時代にも人々の間に分争と分裂を巻き起こしてきました。今日もその分争は続いています。ヨハネの福音書10章19節~21節です。
さて、イエス様の語られたことばによって、ユダヤ人の間で再び分争が生じたのです。イエス様のことばとは、10章の始めからのことばでした。「わたしは羊の門である」とか「わたしはよい羊飼いである。よい羊飼いは、羊のために命を捨てる」などと語ってきました。そしてついに一つの群れ、一つの羊飼いとなるであろうとユダヤ人たちに対してイエス様は語りました。それからイエス様のことばを聞いて、ユダヤ人の多くの人々の間で言い争いが始まったのです。「イエスは悪霊に取りつかれて気が狂っているんだ。どうしてあなたがたはそんな気がふれた人の言うことを聞くのか。」すると、他の人々は反論して言いました。「イエス様のことばは、悪霊に取りつかれた者のことばではない。悪霊は目の見えない人の目を開けることがどうしてできるか。」
このようなイエス様のことばに対する分争は、歴史を貫いて今日まで続いてきました。十字架のことばは、私たちを右と左に分けてきたのです。十字架のことばは、ある人には愚かです。「キリスト信者は愚者の楽園だよ」と酷評した学者たちもいました。「十字架による罪の赦し?からだの復活と永遠のいのちだって?キリストの再臨を信じて従うキリスト信徒たちは愚者の楽園で夢見る者でしかない」と酷評するのです。
他方、イエス様のことばを神のことばと信じて従い、自分の生涯をいのちまでイエス様のためにささげる人たちもいるのです。さて、翻って私たちはイエス様のことばを聞いて、どちらに分かれるでしょうか。イエス様の十字架のことばを前にして、右に行きますか、それとも左でしょうか。伝道者パウロはギリシャのコリント教会の人々にこう書き送りました。「十字架のことばは、滅び行く者には愚かであるが、救いにあずかる私たちには神の力である。」
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