イエスは復活された・なぜ泣いているのですか
- 出演者
- 田村治郎
- 制作
- PBA 太平洋放送協会
- 再生時間
- 5min
- タグ
-
- 死や命について考えているとき
- イースター
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- アップロード日
- 2025.04.26
- カテゴリ
- 人物・人生
- 聖書箇所
-
[新約聖書] ローマ人への手紙 6章5節
- 放送日
- 2025.04.26
「世の光」の時間です。お元気でお過ごしでしょうか。グレース宣教会牧師、ハンガーゼロ巡回牧師の田村治郎です。
イースターの朝、イエスの復活の朝の出来事です。イエスが十字架で死んで葬られた墓に、3日目の日曜日の朝早く、マリヤはイエスの遺体に香油を塗ろうとやってきます。しかし到着して驚きます。なんと墓の入り口をふさぐ大きな石が取り除けられていました。恐る恐る中を覗くと、イエスの遺体も消えている。不当な裁判を受け、ゴルゴダの丘まで十字架を担いで歩かされ、最後は十字架で散々苦しめられたイエス。亡骸となった今でさえどこかに持ち去られるのか。心乱れたマリヤは、悲しみのあまり泣く以外になかったのです。
そんなマリヤに御使が現れ声をかけます。「なぜ、泣いているのですか」それは嘆くマリヤに対してずいぶん冷たいことばに聞こえます。マリヤはイエスの遺体が何処かに行ってしまったことを説明し、こんな悲しいことがあるでしょうかと訴えます。しかし御使いだけでなく、マリヤの後ろに立たれるよみがえられたイエス自身が「なぜ、泣いているのですか」と声をかけます。マリヤには墓の管理人としか思えず、同じように泣きながら説明します。
愛するイエスが死んだだけでなく、その遺体までもがそこにはない、それはどれほどの悲しみと絶望でしょうか。嘆き悲しむ以外にそこに何があるというのでしょう。それでもイエスは問うのです。「なぜ、泣いているのですか」この事実は泣き悲しむことではなく、むしろ喜ぶべきことです。イエスの十字架の死は、そして、その墓が空っぽであることは、まさに死に勝利され、よみがえられた事実そのものなのです。死で終わりと思う人生に、永遠のいのちの希望に生きる新しい人生の始まりを、自らのよみがえり、復活を通して示してくださいました。新約聖書ローマ人への手紙6章5節「私たちがキリストの死と同じようになって、キリストと一つになっているなら、キリストの復活とも同じようになるからです」
イエスを救い主と信じる私たちは、このイエスの復活と一つにされているのです。「なぜ、泣いているのですか」むしろ大いに喜ぶべきことではないでしょうか。
イースターの朝、イエスの復活の朝の出来事です。イエスが十字架で死んで葬られた墓に、3日目の日曜日の朝早く、マリヤはイエスの遺体に香油を塗ろうとやってきます。しかし到着して驚きます。なんと墓の入り口をふさぐ大きな石が取り除けられていました。恐る恐る中を覗くと、イエスの遺体も消えている。不当な裁判を受け、ゴルゴダの丘まで十字架を担いで歩かされ、最後は十字架で散々苦しめられたイエス。亡骸となった今でさえどこかに持ち去られるのか。心乱れたマリヤは、悲しみのあまり泣く以外になかったのです。
そんなマリヤに御使が現れ声をかけます。「なぜ、泣いているのですか」それは嘆くマリヤに対してずいぶん冷たいことばに聞こえます。マリヤはイエスの遺体が何処かに行ってしまったことを説明し、こんな悲しいことがあるでしょうかと訴えます。しかし御使いだけでなく、マリヤの後ろに立たれるよみがえられたイエス自身が「なぜ、泣いているのですか」と声をかけます。マリヤには墓の管理人としか思えず、同じように泣きながら説明します。
愛するイエスが死んだだけでなく、その遺体までもがそこにはない、それはどれほどの悲しみと絶望でしょうか。嘆き悲しむ以外にそこに何があるというのでしょう。それでもイエスは問うのです。「なぜ、泣いているのですか」この事実は泣き悲しむことではなく、むしろ喜ぶべきことです。イエスの十字架の死は、そして、その墓が空っぽであることは、まさに死に勝利され、よみがえられた事実そのものなのです。死で終わりと思う人生に、永遠のいのちの希望に生きる新しい人生の始まりを、自らのよみがえり、復活を通して示してくださいました。新約聖書ローマ人への手紙6章5節「私たちがキリストの死と同じようになって、キリストと一つになっているなら、キリストの復活とも同じようになるからです」
イエスを救い主と信じる私たちは、このイエスの復活と一つにされているのです。「なぜ、泣いているのですか」むしろ大いに喜ぶべきことではないでしょうか。
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