罪を犯す者は、罪の奴隷である
- 出演者
- 板倉邦雄
- 制作
- PBA 太平洋放送協会
- 再生時間
- 5min
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- アップロード日
- 2025.03.18
- カテゴリ
- 人物・人生
- 聖書箇所
-
[新約聖書] ヨハネの福音書 8章33~36節
- 放送日
- 2025.03.18
「世の光」の時間です。いかがお過ごしですか。板倉邦雄です。
今日は「罪を犯す者は、罪の奴隷である」という題でお話しましょう。聖書は、罪という場合、3つの罪について言っています。1つは法律を犯す罪、2つ目は道徳的罪です。人を憎んだりする罪ですね。そして3つ目は宗教的罪があります。いわゆる偶像崇拝の罪です。ヨハネの福音書8章33節からです。
さて、イエス様は自分を信じたユダヤ人たちにこう言いました。「よくよくあなたがたに言っておく。すべて罪を犯す者は罪の奴隷である」私たち人間は、聖書が言うところの3つの罪を犯す者です。法律を犯し、道徳や倫理に外れ、そして偶像に走るのです。そのような罪を犯す時、私たちは心の底から喜んでしているわけではないのですが、欲望に負けて嫌々ながらすることもあります。それは罪という主人の奴隷になっているからでしょう。伝道者パウロはこうした罪の奴隷である私たち人間の悲惨さを次のように語りました。「私は自分のしていることがわからない。なぜなら、私は自分の欲することは行わず、かえって自分の憎むことをしているからである。そこで、このことをしているのは、もはや私ではなく、私のうちに宿っている罪である」
そして、イエス様は続けてユダヤ人に向かってこう言いました。「そして、奴隷はいつまでも家にいる者ではない。しかし、子はいつまでも家にいる。だから、もし子があなたがたに自由を得させるならば、あなたがたは、ほんとうに自由な者となるのである」3つの罪の奴隷から私たちは自由にされます。ここでイエス様が言いたいことは何でしょうか。奴隷はしばらくの間、雇われているだけであって、家の相続人ではない。家の相続人は息子です。イエス様は自分を神の子としているのです。そして、神の子だけが罪の奴隷である私たちを罪から自由にすることができるのです。なぜなら、罪も咎もない神の子イエス・キリストが私たちの罪の身代わりとなって十字架の上で死んでくださったからです。ここに罪からの解放と言いますか、ここに罪の奴隷からの贖い、すなわち解放と自由があるのです。
今日は「罪を犯す者は、罪の奴隷である」という題でお話しましょう。聖書は、罪という場合、3つの罪について言っています。1つは法律を犯す罪、2つ目は道徳的罪です。人を憎んだりする罪ですね。そして3つ目は宗教的罪があります。いわゆる偶像崇拝の罪です。ヨハネの福音書8章33節からです。
さて、イエス様は自分を信じたユダヤ人たちにこう言いました。「よくよくあなたがたに言っておく。すべて罪を犯す者は罪の奴隷である」私たち人間は、聖書が言うところの3つの罪を犯す者です。法律を犯し、道徳や倫理に外れ、そして偶像に走るのです。そのような罪を犯す時、私たちは心の底から喜んでしているわけではないのですが、欲望に負けて嫌々ながらすることもあります。それは罪という主人の奴隷になっているからでしょう。伝道者パウロはこうした罪の奴隷である私たち人間の悲惨さを次のように語りました。「私は自分のしていることがわからない。なぜなら、私は自分の欲することは行わず、かえって自分の憎むことをしているからである。そこで、このことをしているのは、もはや私ではなく、私のうちに宿っている罪である」
そして、イエス様は続けてユダヤ人に向かってこう言いました。「そして、奴隷はいつまでも家にいる者ではない。しかし、子はいつまでも家にいる。だから、もし子があなたがたに自由を得させるならば、あなたがたは、ほんとうに自由な者となるのである」3つの罪の奴隷から私たちは自由にされます。ここでイエス様が言いたいことは何でしょうか。奴隷はしばらくの間、雇われているだけであって、家の相続人ではない。家の相続人は息子です。イエス様は自分を神の子としているのです。そして、神の子だけが罪の奴隷である私たちを罪から自由にすることができるのです。なぜなら、罪も咎もない神の子イエス・キリストが私たちの罪の身代わりとなって十字架の上で死んでくださったからです。ここに罪からの解放と言いますか、ここに罪の奴隷からの贖い、すなわち解放と自由があるのです。
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