神の憤りは終わる

出演者
羽鳥頼和
制作
PBA 太平洋放送協会
再生時間
5min
タグ
  • 不安や恐れを感じているとき

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アップロード日
2024.09.24
カテゴリ
人物・人生
聖書箇所
[旧約聖書] イザヤ書 10章
放送日
2024.09.24

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「世の光」の時間です。お聞きくださりありがとうございます。羽鳥頼和です。
今日は、旧約聖書イザヤ書の10章からお話しします。
イザヤ書は、今から2800年ほど前の中近東のことが語られている書物です。
この当時、南北に分裂していたイスラエルは、神の教えを守らず、自分勝手な礼拝をし、外国の神々を拝む偶像礼拝もさかんに行っていました。偶像礼拝とは、イスラエルの神が してはならないと厳しく命じておられたことでした。
その当時は、アッシリアという国が勢力をのばし、イスラエルの地域にまで侵略をしてきていました。
アッシリアは、北王国の都を攻撃しました。それは神の懲らしめであり、神は、彼らを懲らしめることによって南王国にも、罪を悔い改めさせて、神に救いを求めさせようとされたのです。
しかし、人々は、神に救いを求めず、自分たちの行っている罪をやめようとしませんでした。
実際には、その後、アッシリアは、北王国を滅し、南王国への侵略をするのです。
イザヤ書10章は、そのようなときに語られました。しかしそこには、国々を滅ぼしおごり高ぶっているアッシリアを神が滅ぼされることが語られているのです。
そのところで、神はイスラエルに「もうほんの少しでわたしの憤りは終わる」と語っておられます。
神は、イスラエルに対して憤っておられるのですが、アッシリアを滅ぼすことによって神は憤ることをやめると言われているのです。
そして、アッシリアが滅ぼされたあと、「イスラエルの残りの者」が、悔い改めて、神に救いを求めるようになると語られているのです。
「残りの者」とは、実際にはアッシリアに捕えられ、外国に捕え移された人々のことであり、そのような苦難と困難をとおして、自分の罪を認め、神の赦しを求めて、まことの神を信じるようになる人々のことです。
神がさばきをなさるのは、人にその罪を教え、罪を認めさせ、神を信じさせて、罪の赦しと救いを与えるためなのです。
神のさばきは、悔い改めることのできた人には、神の救いなのです。

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