泣かなくてもよい①
- 出演者
- 大嶋重徳
- 制作
- PBA 太平洋放送協会
- 再生時間
- 5min
- タグ
-
- 孤独や悲しみを覚えるとき
- 愛する人を失ったとき
- 死や命について考えているとき
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- アップロード日
- 2024.07.01
- カテゴリ
- 人物・人生
- 聖書箇所
-
[新約聖書] ルカの福音書 7章11~17節
- 放送日
- 2024.07.01
「世の光」の時間です。いかがお過ごしでしょうか。大嶋重徳です。私の担当する今週は、イエス様が「泣かなくてもよい」とおっしゃった聖書のルカ7章から学びます。
イエス様が弟子たちと一緒にナインという町に来られました。町の門に近づかれた時、葬儀の列に出会われたのです。ある母親の一人息子が、死んで担ぎ出されるところでした。彼女は夫を先に失った女性でした。子どもの成長を見ずして自分の夫が亡くなる。彼女は必死になって一人息子を育てたでしょう。成長を楽しみにし、頼りにもしていた息子です。まさに息子の成長は自分の人生の喜び、生きがいだったはずです。その息子が自分よりも先に死んだのです。どれほどの悲しみと絶望が彼女に訪れたでしょうか。この当時の墓地は町の外にありました。町の門は日常と死を隔てる存在でした。いよいよ自分の生きている光景から息子がいなくなる。棺を担ぐ人々によって、墓に埋葬されると、もう息子の顔を見ることもできない。体に触れることもできなくなる。棺にすがりつくような激しい悲しみと、諦めが溢れていました。この葬儀の列には彼女を少しでも慰めたいと思っている町の人々がいました。しかし、慰めのことばをかけようとしても何も浮かばなかっただろうと思います。人間のいかなる慰めも及ばない絶望の中で、泣き叫ぶ母親の声が虚しく響いていたのです。
イエス様はその母親の悲しみをじっと見られました。イエス様のなかで感情がわき起こってきたのです。「かわいそうに思い」。このことばは、ギリシャ語で「スプラングニゾマイ」「内臓が揺さぶられる」という意味のことばです。「はらわたのよじれるような」「内臓が痛むような」感情です。締め付けられるようにキリキリと痛む。
聖書の神様は、私たちの抱える悲しみをともに悲しんでくださる神様です。「どうして。神様、どうして」と言わずにはおれない悲しみを私たちは抱える時があります。特に愛する人を失った時、涙は止まらずに、心は思い乱れ、すべてを奪い取られるような悲しみを持ちます。その悲しみをイエス様は一緒になって、腸のちぎれるような思いで私たちとともに悲しんでくださるのです。今週は、神様がともに悲しんでくださる、そんな私たちの涙を一緒に見ていきたいと思います。
イエス様が弟子たちと一緒にナインという町に来られました。町の門に近づかれた時、葬儀の列に出会われたのです。ある母親の一人息子が、死んで担ぎ出されるところでした。彼女は夫を先に失った女性でした。子どもの成長を見ずして自分の夫が亡くなる。彼女は必死になって一人息子を育てたでしょう。成長を楽しみにし、頼りにもしていた息子です。まさに息子の成長は自分の人生の喜び、生きがいだったはずです。その息子が自分よりも先に死んだのです。どれほどの悲しみと絶望が彼女に訪れたでしょうか。この当時の墓地は町の外にありました。町の門は日常と死を隔てる存在でした。いよいよ自分の生きている光景から息子がいなくなる。棺を担ぐ人々によって、墓に埋葬されると、もう息子の顔を見ることもできない。体に触れることもできなくなる。棺にすがりつくような激しい悲しみと、諦めが溢れていました。この葬儀の列には彼女を少しでも慰めたいと思っている町の人々がいました。しかし、慰めのことばをかけようとしても何も浮かばなかっただろうと思います。人間のいかなる慰めも及ばない絶望の中で、泣き叫ぶ母親の声が虚しく響いていたのです。
イエス様はその母親の悲しみをじっと見られました。イエス様のなかで感情がわき起こってきたのです。「かわいそうに思い」。このことばは、ギリシャ語で「スプラングニゾマイ」「内臓が揺さぶられる」という意味のことばです。「はらわたのよじれるような」「内臓が痛むような」感情です。締め付けられるようにキリキリと痛む。
聖書の神様は、私たちの抱える悲しみをともに悲しんでくださる神様です。「どうして。神様、どうして」と言わずにはおれない悲しみを私たちは抱える時があります。特に愛する人を失った時、涙は止まらずに、心は思い乱れ、すべてを奪い取られるような悲しみを持ちます。その悲しみをイエス様は一緒になって、腸のちぎれるような思いで私たちとともに悲しんでくださるのです。今週は、神様がともに悲しんでくださる、そんな私たちの涙を一緒に見ていきたいと思います。
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