十字架-神の力

出演者
関根弘興
制作
PBA太平洋放送協会
再生時間
5min
タグ
  • 一歩踏み出したいとき
  • イースター

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アップロード日
2024.03.30
カテゴリ
人物・人生
聖書箇所
[新約聖書] マタイの福音書 27章
[新約聖書] コリント人への手紙第一 1章18節
放送日
2024.03.30

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「世の光」の時間です。お元気でお過ごしでしょうか。関根弘興です。
今週はイエス・キリストがどうして十字架につけられたのかをご一緒に考えてきました。イエス様は、何の罪も偽りもないのに十字架につけられました。しかし、その十字架は、私たちの罪の身代わりであったこと、そして、私たちの罪が赦される道がイエス様の十字架によって完成したこと、また、イエス様を救い主として信じ、受け入れることは永遠のみ住まいまでもが約束されることをご一緒に考えてきました。
イエス様のあの十字架のまわりには、いろんな人たちがいました。そこには、ローマ兵がいました。彼らは、イエス様をあざけり、ののしりながら十字架に付けた人々です。でも、どうでしょうか。今日もキリストをあざけり、まるで、もう一度イエス様を十字架に付けてしまうかのような生活の中にいる人がいませんか。イエス様は何と言われたか思い出して下さい。イエス様は、「父よ、彼らはお赦しください。何をしているのかわからないのです」と、なお弁護して下さる方です。また、イエス様の下には、当時に宗教家たち、祭司長、律法学者たちがいました。自分の正しさ、義を盾にしながら、平気で偽りの証人を立てる人たちでした。彼らは、イエス様の十字架をあざ笑っている人たちでした。
しかし、どうでしょう。「わたしは、正しい人間ですから、イエス様のお世話にならなくても、立派に生きていきますよ。自分の力でなんとかなります。」とそう言っている人がいませんか。イエス様をただのわずらわしい存在としか見ていない人も大勢います。また、多くの傍観者たちがいました。我関せずという態度です。キリストと私とは無関係です、と考えているのです。でも本当にそうでしょうか。イエス様は傍観している一人一人のためにも、実は十字架についてくださったのです。身代わりの十字架ですから。そして、十字架のもとで涙を流して、ひざまづく人たちもいました。十字架のもとでイエス様の姿をじっと見ていたローマの兵隊の長はこう告白しました。「この方は本当に神の子であった」と。
パウロは、第一コリント1章18節で「十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です」と書いています。十字架のことばとは、十字架のストーリーそのものです。十字架のストーリーを受け入れ、イエス様を救い主として信じることは、まさに救いを得させる神の力となるのです。あなたは、十字架のどこにいますか?

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