神の面子にかけて

出演者
関根弘興
制作
PBA太平洋放送協会
再生時間
5min
タグ
  • 不安や恐れを感じているとき
  • 孤独や悲しみを覚えるとき
  • 元気をもらいたいとき

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アップロード日
2023.09.05
カテゴリ
人物・人生
聖書箇所
[新約聖書] ルカの福音書 11章
[旧約聖書] 箴言 3章28節
放送日
2023.09.05

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「世の光」の時間です。お元気でお過ごしでしょうか?関根弘興です。今週はイエス・キリストがお語りになったたとえ話から、祈りについてご一緒に考えています。
イエス・キリストは、こんなたとえを話されました。ある日の真夜中頃です。旅の途中の友人が突然家にやってきました。しかし、家には何も出してやるものがありません。そこで、この友達は、別の友達の所に行って「パンを3つ貸してくれ」と頼むのです。するとこの家の友人は「おいおい、こんな夜中に面倒かけないでくれ。もうみんな寝ているんだよ」と断ってしまいます。でも、しつこく求めれば、この友人もパンを貸してくれるだろう、という話なのですね。そこで前回は、とにかく失望せずに祈り続けていくことが大切だ、ということをお話をしました。
このたとえの中で、友人があくまで頼み続けるなら、必要を与えてくれるだろう、とイエス・キリストは言われましたね。この「あくまで頼み続けるなら」と訳される箇所は、「恥知らず」と訳されたり、「恥をかかない」とも訳される不思議なことばなんですね。
どういうことかと言いますと、「頼む側の恥知らずと思えるような行動の故に必要な物が与えられる」とも訳せるし、「頼まれた側が恥をかかないために必要な物を与える」とも訳せるわけです。
 旧約聖書の箴言3章28節に「あなたに物があるとき、隣人に向かって、『帰って、また来なさい。明日あげよう』と言うな」と、このように書かれています。
これは、「友達に頼まれたものが手元にあるなら、その場ですぐに与えるべきだ」ということですね。ユダヤの社会に生きているなら、よく聞かされていたことばだったはずです。ですから、イエス・キリストのたとえ話を聞いていた人たちは、「友達がパンを貸してくれと頼みに来たら、夜中であっても、すぐに貸してやるのがあたりまえだ」と思ったかもしれません。いくら真夜中に起こされて迷惑だったとしても、貸さなければ、後で「友達に頼まれたのに断った男」として恥をかくことになるかもしれません。ですから、自分の面子にかけて「頼まれた友人は、自分が恥をかかないためにも必要なパンを貸すだろう」というような意味にも取ることもできるというわけです。
だとすると。まして、私たちの愛なる神様は、ご自分の面子にかけて、ご自分の名にかけて、私たちの祈りを放っておかれるはずがない、聞かずにはおられない方だということを知ることが出来るのです。
失望せずに祈り続ける、それは、神様がご自分の面子にかけても聞いてくださる、ということなのですね。

コメント

永井明
この聖句は心に響きます。安らがます。

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