ルカの福音書 129
- 出演者
- 大嶋重徳
- 制作
- PBA太平洋放送協会
- 再生時間
- 5min
- タグ
-
- 一歩踏み出したいとき
もっと詳しく見る
- アップロード日
- 2023.08.01
- カテゴリ
- 人物・人生
- 聖書箇所
-
[新約聖書] ルカの福音書 6章
- 放送日
- 2023.08.01
「世の光」の時間です。いかがお過ごしでしょうか。大嶋重徳です。今週は、新約聖書ルカ6章でイエス様の「平地の説教」と呼ばれる箇所のお話です。ここには、イエス様に触れたいと願っている病気の人たちがいました。するとその人たちを見つめて、イエス様は、「貧しい者は幸いです」と話し出されました。「幸い」ということばは、マカリオスというギリシャ語です。いわゆるハッピーというような、明るく楽しくて幸せというよりも、「ゴッド・ブレス・ユー」と言われる場合の神様からいただける祝福の幸せです。
しかし、問題は、ここでイエス様が「貧しい者が幸せ」だと言われたことです。さらに、飢えている者も幸せだ、とも言われました。さらに、泣いている者も幸せ。貧しさと同様、お腹が減っていることも、涙を流すことも、到底、幸せとは言い難い状況ではないでしょうか。困難や、心がぐらぐらと揺らぎっぱなしの状況。ここには明らかにことばの矛盾があります。
しかし、ここでイエス様に触れてほしいと思う人たちの中にイエス様は信仰を見ておられました。「貧しい」とは文字通りの貧困ではなく、「欠落している」という意味のことばです。イエス様に出会ったことのゆえに、「ああ自分は本物を知らなかった」「自分の人生には欠落している何かがあると分かった」。そして、キリストを求める貧しさ、本物を求める貧しさが自分にあると気が付いていく。この自分に決定的に欠落している神様との関係を求める「飢え渇いている人」は幸いなのだと言われました。自分自身の信仰の「貧しさ」を自覚している人の幸いを言われたのです。イエス様は、神に触ろうとキリストの側に出てくる信仰の姿を見つめておられたのです。イエス・キリストを信じ、従おうとするならば、当時の権力者を、宗教的な実力者を敵に回すことにもなります。あるいは自分の生活を投げ捨てて、キリストに従った十二弟子たちのことを思われてイエス様は語られました。この場所には神を求め、イエスを求めようとする信仰の貧しさ、飢え、キリストを求めることの涙が流されていました。そして、それは不幸なことでは決して無い。神を本気で求める者に注がれる神からの祝福がここに満ちていると、彼らに言ってくださったのです。私たちも同じく真剣に神を求める一週間を過ごしたいと思います。
しかし、問題は、ここでイエス様が「貧しい者が幸せ」だと言われたことです。さらに、飢えている者も幸せだ、とも言われました。さらに、泣いている者も幸せ。貧しさと同様、お腹が減っていることも、涙を流すことも、到底、幸せとは言い難い状況ではないでしょうか。困難や、心がぐらぐらと揺らぎっぱなしの状況。ここには明らかにことばの矛盾があります。
しかし、ここでイエス様に触れてほしいと思う人たちの中にイエス様は信仰を見ておられました。「貧しい」とは文字通りの貧困ではなく、「欠落している」という意味のことばです。イエス様に出会ったことのゆえに、「ああ自分は本物を知らなかった」「自分の人生には欠落している何かがあると分かった」。そして、キリストを求める貧しさ、本物を求める貧しさが自分にあると気が付いていく。この自分に決定的に欠落している神様との関係を求める「飢え渇いている人」は幸いなのだと言われました。自分自身の信仰の「貧しさ」を自覚している人の幸いを言われたのです。イエス様は、神に触ろうとキリストの側に出てくる信仰の姿を見つめておられたのです。イエス・キリストを信じ、従おうとするならば、当時の権力者を、宗教的な実力者を敵に回すことにもなります。あるいは自分の生活を投げ捨てて、キリストに従った十二弟子たちのことを思われてイエス様は語られました。この場所には神を求め、イエスを求めようとする信仰の貧しさ、飢え、キリストを求めることの涙が流されていました。そして、それは不幸なことでは決して無い。神を本気で求める者に注がれる神からの祝福がここに満ちていると、彼らに言ってくださったのです。私たちも同じく真剣に神を求める一週間を過ごしたいと思います。
コメント
番組に対するコメントはまだありません。ぜひ感想をお願いいたします。