礼服を着ていない者
- 出演者
- 関根弘興
- 制作
- PBA太平洋放送協会
- 再生時間
- 5min
- タグ
-
- 孤独や悲しみを覚えるとき
- 一歩踏み出したいとき
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- アップロード日
- 2023.05.02
- カテゴリ
- 人物・人生
- 聖書箇所
-
[新約聖書] ルカの福音書 14章
[新約聖書] ガラテヤ人への手紙 3章27節
- 放送日
- 2023.05.02
「世の光」の時間です。お元気でお過ごしでしょうか。関根弘興です。
今日は、イエス・キリストがマタイの福音書22章で話された、王子の結婚披露宴のたとえ話の続きです。
王様は「大通りに出て行って出会った者をみな招待しなさい」としもべに命じたのです。宴会場は客でいっぱいになりました。ところが、その中に婚礼の礼服を着ていない者がひとりいました。すると、王は、その人を縛って外の暗やみに放り出すようにしもべたちに命じたというのですね。それだけ聞くと驚きますね。「出会った人を手当たり次第に招いておいて、礼服を着ていないというだけで外に放り出すなんてひどいじゃないか。だいたい大通りにいる人はだれも礼服なんて着ていないではないか」とそう思われるでしょう。
当時、王様に謁見するときには、王様から与えられる晴着を身につけました。普段着で王の前に出ることなど決してありえませんでした。ですから、王子の披露宴に礼服を着ないで出るということは、王様の栄光を傷つける行為、王に対する背信行為でもあったわけです。ですから、事前にちゃんとひとりひとりのために礼服は用意されていました。
しかし、一人だけ着ようとしない人がいたわけです。この人はこの祝宴を冷ややかに、そして侮辱をするためにだけに来たかのような態度をとりました。
礼服を着るということには、どういう意味があるのでしょうか。ここに、イエス・キリストが話されたたとえ話の強調点があります。それは、神様は、私たち一人一人を祝宴に招いてくださるだけでなく、神様の前に出るのにふさわしい礼服を備えてくださっているということなのですね。
私たちは、そのままでは誰も神様の前に出ることができない罪人です。ですから礼服を身につけなければなりません。そして、その礼服は神様のほうで用意してくださっていると教えているわけです。
新約聖書ガラテヤ人への手紙3章27節には、「キリストを着た」と書かれています。神様は、私たちのために、キリストご自身を礼服として与えてくださったというのです。
キリストを着るとはいったいどういうことでしょう。それは私たちの罪汚れをキリストの愛によって覆っていただくことです。救いの衣といってもいいのですね。
神様は、一人一人に救いの衣を用意してくださっています。どうして、それを拒否する必要があるでしょう。用意された救いの衣を喜んで「ありがとうございます」と言って身につければいいではありませんか。それによって、私たちは、いつでもどこでも自由に神様のみ前に出ることが出来るのですから。
今日は、イエス・キリストがマタイの福音書22章で話された、王子の結婚披露宴のたとえ話の続きです。
王様は「大通りに出て行って出会った者をみな招待しなさい」としもべに命じたのです。宴会場は客でいっぱいになりました。ところが、その中に婚礼の礼服を着ていない者がひとりいました。すると、王は、その人を縛って外の暗やみに放り出すようにしもべたちに命じたというのですね。それだけ聞くと驚きますね。「出会った人を手当たり次第に招いておいて、礼服を着ていないというだけで外に放り出すなんてひどいじゃないか。だいたい大通りにいる人はだれも礼服なんて着ていないではないか」とそう思われるでしょう。
当時、王様に謁見するときには、王様から与えられる晴着を身につけました。普段着で王の前に出ることなど決してありえませんでした。ですから、王子の披露宴に礼服を着ないで出るということは、王様の栄光を傷つける行為、王に対する背信行為でもあったわけです。ですから、事前にちゃんとひとりひとりのために礼服は用意されていました。
しかし、一人だけ着ようとしない人がいたわけです。この人はこの祝宴を冷ややかに、そして侮辱をするためにだけに来たかのような態度をとりました。
礼服を着るということには、どういう意味があるのでしょうか。ここに、イエス・キリストが話されたたとえ話の強調点があります。それは、神様は、私たち一人一人を祝宴に招いてくださるだけでなく、神様の前に出るのにふさわしい礼服を備えてくださっているということなのですね。
私たちは、そのままでは誰も神様の前に出ることができない罪人です。ですから礼服を身につけなければなりません。そして、その礼服は神様のほうで用意してくださっていると教えているわけです。
新約聖書ガラテヤ人への手紙3章27節には、「キリストを着た」と書かれています。神様は、私たちのために、キリストご自身を礼服として与えてくださったというのです。
キリストを着るとはいったいどういうことでしょう。それは私たちの罪汚れをキリストの愛によって覆っていただくことです。救いの衣といってもいいのですね。
神様は、一人一人に救いの衣を用意してくださっています。どうして、それを拒否する必要があるでしょう。用意された救いの衣を喜んで「ありがとうございます」と言って身につければいいではありませんか。それによって、私たちは、いつでもどこでも自由に神様のみ前に出ることが出来るのですから。