隠された宝のたとえ

出演者
関根弘興
制作
PBA太平洋放送協会
再生時間
5min
タグ
  • 孤独や悲しみを覚えるとき
  • 一歩踏み出したいとき

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アップロード日
2023.01.13
カテゴリ
人物・人生
聖書箇所
[新約聖書] マタイの福音書 13章44節
[新約聖書] ピリピ人への手紙 3章8節
放送日
2023.01.13

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「世の光」の時間です。お元気でお過ごしでしょうか。関根弘興です。
イエス様は、こんなたとえ話をされました。マタイの福音書13章44節「天の御国は畑に隠された宝のようなものです。その宝を見つけた人は、それをそのまま隠しておきます。そして喜びのあまり、行って、持っている物すべてを売り払い、その畑を買います。」
この当時は銀行の貸金庫などありませんから、財産や宝物をどこに隠したかというと、自分の地所のどこかに埋めるということをしたそうです。しかし、持ち主が死んでしまい、時が経つと、そのまま忘れ去られてしまうということが時々起こったようです。この農夫は、ただ畑の仕事を任されていた雇い人にすぎませんでした。まるで偶然、畑を掘っていたら大きな宝を見つけ、すぐに自分のわずかな財産で畑を買い、その宝を自分のものにしたというお話です。
このたとえ話は私たちに何を教えているのでしょう。それは「天の御国は、時には、偶然に見えるような日常の中で見つけることができるが、それは、自分の持っているものすべてと引き替えに買い取っても惜しくないほどの価値ある宝物のようなものだ」というわけですね。
私は牧師をしながら、多く人の話を聞きました。ある人は自分から求めてきたわけではなく、まるで偶然と思えるような出来事が重なってイエス様に出会い、永遠の御国という宝を発見したという方もおられます。また、いつもは通らない道を通ったら教会があって、行ってみたところイエス・キリストを信じクリスチャンになりましたとか、ラジオをつけたら「世の光」の放送を聴いてイエス様の素晴らしさを発見したとか、色々ですね。
新約聖書の後半の手紙をたくさん書いたパウロもそうでした。彼は、クリスチャンを迫害するためにダマスコに出掛けていきました。でも、その途中まばゆい光に打たれ、イエス様の声を聞いたのです。彼はイエス様を熱心に求めていたわけではありませんでした。しかし、このイエス様との出会いは、彼にとってかけがえない永遠の宝を発見することと同じ出来事になっていきました。
後にパウロは、ピリピ3章8節にこう記しています。「私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、私はすべてを損と思っています。私はキリストのゆえにすべてを失いましたが、それらはちりあくただと考えています。」イエス・キリストの与える救いは他のものと比べることができないほど素晴らしいものなのですね。

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