徳島に赴任して

出演者
坂口満夫(カナン教団国府教会)
制作
PBA 太平洋放送協会
再生時間
5min
タグ
  • 疲れているとき
  • 不安や恐れを感じているとき
  • 孤独や悲しみを覚えるとき

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アップロード日
2022.08.10
カテゴリ
人物・人生
聖書箇所
[新約聖書] マタイの福音書 9章37、38節
放送日
2022.08.10

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おはようございます。カナン教団国府教会で牧師をさせていただいています、坂口満夫と申します。徳島に赴任させていただいて、はやいもので丸31年になりました。
もともと私が生まれ育った教会は大阪府の堺市にあるのですが、徳島県の穏やかな県民性がとても自分に合ったのか、そして、また近所の方々にも恵まれて、(イエス様のことを伝える「伝道」ということで言うと、うまくいっているのかいっていないのかというところなのですが)、まわりの方々から教えていただくことの方が多いような中で、でも居心地良く教会でつとめさせていただいています。
「どこに派遣されるか」ということは、それはどんな仕事の場合でもそうだとは思うのですが、その人の人生の方向を決めるほどの、大きなことではあると思います。ただ、だけれども牧師の場合は、「神様がそこに遣わしてくださる」わけで、そこに神様が愛しておられる方々、イエス様がその尊き血潮によって、救いとらんとなさっておられる方々がおられるわけなので、その方々が第一なのです。牧師の人生の方向性なんていうのは二の次なのですね。
イエス様はおっしゃいました。「収穫(かりいれ)はおほく労働人(はたらきびと)はすくなし。この故に収穫(かりいれ)の主に労働人(はたらきびと)をその収穫場(かりいれば)に遣し給はんことを求めよ」(マタイの福音書9:37~38)。
23年間、専任の牧師がいなかった教会に、言われるがままに赴任してきたのですが、そこには教会の方々の熱心な祈りがあったのだということを、今さらのことながら思うとき、その祈りに支えられて私の今があるのだと、逆に感謝せずにはいられません。
こうして教会というところは、神様がお造りくださった砦として、互いに祈り合う信じる者たちを固く守るのだと、みせられるのです。
神様を信じ、イエス様を救い主と信じる者たちが、十字架がかかげられている教会という建物に集められていく。これは神様の真実なる救いのみわざです。祈る者も、祈られる者も、神様のみ前に立ち、神様に祈る。その祈りを聴いてくださるのは神様です。
そして、そこに集う者たちは、週ごとにイエス様がそれぞれの「私」のために、してくださった尊く聖い贖いを心に忘れないように、聴きながら、救いの道を行くのですね。「みんなで」です。
徳島にもその拠点がある。どうか、拠り所や生きている意味を見失ってしまいそうになるとき、教会の門は求める者の前に開かれているのだということを思ってください。

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