聖書が神の言葉とは?

出演者
大山 勝(鳴門アガペーホームチャペル)
制作
PBA 太平洋放送協会
再生時間
5min
タグ
  • 不安や恐れを感じているとき
  • 一歩踏み出したいとき

もっと詳しく見る

アップロード日
2022.08.09
カテゴリ
人物・人生
聖書箇所
[新約聖書] テモテへの手紙第二 3章16節
放送日
2022.08.09

いいね登録

     登録数:7

いいねリストを見る

おはようございます。鳴門アガペーホームチャペル牧師の大山勝です。
今朝は「聖書が神の言葉とは?」という題でお話しさせていただきます。
クリスチャンは「聖書は神のことばである」と信じています。それは一体どういう意味でしょうか。なぜそう信じることが出来るのでしょうか。
聖書は、旧約聖書39巻、新約聖書27巻で、計66巻の総称で、約40人の人々によって記されています。そこには王もいれば、農夫も、商人も、医者も、税務者もいました。この様に聖書を直接記したのは、いずれも人間であります。
では、なぜ人間が書いたものを神のことばと信じるのでしょうか。例えば、もし「法隆寺は誰が建てたか」と聞けば、「聖徳太子だ」と答えるでしょう。それは正しい答えです。しかし、聖徳太子が実際に大工道具を持って、1人で建てたのでしょうか。いいえ、実際に建て上げたのは、大勢の大工や左官たちです。では、法隆寺を建てたのは大工や左官かというと、やはり聖徳太子であるのです。
聖書の場合も同じです。聖書は多くの人々の手によって記されました。では、聖書の本当の著者は、それらの人々かと言うと、そうではなく、実際は彼らを導かれた神なのです。
その事については、聖書自らが「聖書はすべて、神の霊感よるものである」と、テモテへの手紙第二3章16節に書かれています。つまり、聖書が神のことばであるとは、聖書が神の霊感、つまり神によって書かれたものである故であります。
聖書の中には、歴史あり、律法あり、詩があり、預言ありで、非常に多様です。しかし、一つのテーマによって貫かれ、均衡と統一がとれています。今、仮りに40人をいろいろな所から選び、各自に自由な題で文を書いてもらい、それを集めて一冊の本にしたらどうなるでしょうか。それは世界で最も混乱した本になるでしょう。
ところが聖書は、場所の違いばかりではなく、時代も身分も違う人々によって書かれたにもかかわらず、統一と調和がとれており、一つの矛盾もないのです。
従って聖書は神のことばと言うことが出来るのです。ラジオをお聴きの皆さんも一度聖書を手にして読んで見てはいかがでしょうか。

コメント

番組に対するコメントはまだありません。ぜひ感想をお願いいたします。

コメントを投稿する

お問い合わせ