ルカの福音書-105 正しさ=愛?

出演者
大嶋重徳
制作
PBA 太平洋放送協会
再生時間
5min
タグ
  • 人を許すことが出来ないとき

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アップロード日
2022.07.15
カテゴリ
人物・人生
聖書箇所
[新約聖書] ルカの福音書 5章
放送日
2022.07.15

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「世の光」の時間です。いかがお過ごしでしょうか。大嶋重徳です。
ルカ福音書を今週は順番に読んでいます。5章に入りました。イエス様のガリラヤ伝道の様子を読み進めています。中風という脳梗塞になった男性に、イエス様は「友よ、あなたの罪は赦されました」と言われたのです。「友よ」と呼びかけ、赦しの宣言をされました。友情にあふれた瞬間がこの家に訪れたのです。
しかし、そこに同じ部屋にいながらにしてある人々には友情がありませんでした。律法学者、パリサイ人と呼ばれる宗教指導者たちでした。おそらく、ずっと腕組みをして聞いていたでしょう。そして、「あなたの罪は赦された」というイエス様のことばを聞いたとき、「この男は自分を何者だと思っているのか!神お一人のほかに人間の罪を赦すことができる者などいない。神にしかできないことを自分がするかのように宣言するなんて、イエスは神を冒涜している!」と理屈を言ったのです。
しかし、これまでのこの時の光景を見て、彼らの心は動かなかったのかなと思います。感動しなかったのかと。
パリサイ人、律法学者の親戚や家族、親しい者の中には、身動きのできない病気の人がいなかったんでしょうか。天井がはがれてきたときに、その友情と愛に出会ったとき、自分にも連れて行きたいと思う人が思い浮かばなかったのかと思うのです。
「罪が赦された」ということばを聞いて、いっしょに喜ぶ気持ちがなかったんだろうか。当然、律法学者、パリサイ人の方が「罪とは何か」ということを聖書を調べて知っています。そして律法学者、パリサイ人も自分もまた一人の罪人にすぎないわけです。
教会がこうなってしまうなら悲しいことです。言っていることは確かに正しい。しかし、教会に行きたくても来ることができない人の悩み、そう簡単には信じることのできない人の気持ち、その思いを知らぬままに不信仰をなじるならば、イエス様の友情からは程遠くなるでしょう。いつの間にか上に立って正しいかのような理屈を言う。教会は固い固い天井を作ってしまっている。教会に入ってこれないような固い固い天井があるとき、イエス様の「友よ」ということばが空しく響いていかないのです。
私たちも理屈を言うときはいつも正しいことを言っていると思います。しかし、正しいことが愛とは限りません。私たちはイエス様のように愛に生きていきたい。誰かの罪の赦しを心から喜ぶ、愛に生きる者になりたいと思います。

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