まことのぶどうの木
- 出演者
- 関根弘興
- 制作
- PBA 太平洋放送協会
- 再生時間
- 5min
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- アップロード日
- 2020.06.05
- カテゴリ
- 人物・人生
- 聖書箇所
-
[新約聖書] ヨハネの福音書 15章1、5節
- 放送日
- 2020.06.05
「世の光」の時間です。お元気でお過ごしでしょうか、関根弘興です。
今日はまず、イエス・キリストが弟子たちに語られたことばを紹介しましょ う。ヨハネの福音書 15 章 5 節、「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。」
当時のユダヤの人たちにとって、ぶどうというのは大変馴染み深い果物でし た。何故なら旧約聖書には、イスラエルの民が「ぶどうの木」にたとえられて おり、イスラエルの民の象徴として、ぶどうというものはよく使われていたか らです。そしてイエス様が、公に活動されたこの時代には、エルサレムの神殿 には黄金作りのぶどうが飾られており、人々はさらに金のぶどうの房や枝を献 げていきました。
当時のユダヤの人たちは、皆一生懸命、神殿詣をして、戒めを守って、「自分 たちこそ良いぶどうの木であり、豊かな実を結んでおり、神に認められている のだ」と自負していました。
しかしイエス様は、そういう人たちに対して、「あなたがたは昔、預言者たち が指摘した姿とちっとも変わっていない」と、厳しく指摘されたんです。「あな たがたは、自分が良いぶどうの木だと思っているけれど、良い実を結んでいな いではないか。あなたがたが結んでいるのは、悪い実ばかりだ」と、特に、ユ ダヤの指導者たちにはっきりと指摘なさったんです。
そしてイエス様はなんと、御自分の弟子たちに「わたしはぶどうの木、あな たがたは枝です」と告げられたんです。イエス様はヨハネの福音書 15 章 1 節で、 「わたしはまことのぶどうの木」と言われました。わざわざ「まことの」とい うことばがつけられているんですね。これは偽物でなく本物という意味ですよ ね。類似品やまがい物でなく、純正という意味があるわけです。この世の中に は「自分こそ救い主」と偽り、キリストを模倣し、道を外させてしまうような 働きがあることを聖書は語っています。
イエス様は、まことのぶどうの木です。つまり、イエス様こそ、まことの救 い主であり、人生の土台であり、すべての根源となられる方だということを聖 書は教えるんですね。教会の組織も、特定の団体も、優れた人物も、決してぶ どうの木の本体になることはできません。私たちが、いつもつながっていなけ ればならない幹は、まことのぶどうの木である、イエス・キリストご自身なん ですね。そして私たちはその枝なのです。
今日はまず、イエス・キリストが弟子たちに語られたことばを紹介しましょ う。ヨハネの福音書 15 章 5 節、「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。」
当時のユダヤの人たちにとって、ぶどうというのは大変馴染み深い果物でし た。何故なら旧約聖書には、イスラエルの民が「ぶどうの木」にたとえられて おり、イスラエルの民の象徴として、ぶどうというものはよく使われていたか らです。そしてイエス様が、公に活動されたこの時代には、エルサレムの神殿 には黄金作りのぶどうが飾られており、人々はさらに金のぶどうの房や枝を献 げていきました。
当時のユダヤの人たちは、皆一生懸命、神殿詣をして、戒めを守って、「自分 たちこそ良いぶどうの木であり、豊かな実を結んでおり、神に認められている のだ」と自負していました。
しかしイエス様は、そういう人たちに対して、「あなたがたは昔、預言者たち が指摘した姿とちっとも変わっていない」と、厳しく指摘されたんです。「あな たがたは、自分が良いぶどうの木だと思っているけれど、良い実を結んでいな いではないか。あなたがたが結んでいるのは、悪い実ばかりだ」と、特に、ユ ダヤの指導者たちにはっきりと指摘なさったんです。
そしてイエス様はなんと、御自分の弟子たちに「わたしはぶどうの木、あな たがたは枝です」と告げられたんです。イエス様はヨハネの福音書 15 章 1 節で、 「わたしはまことのぶどうの木」と言われました。わざわざ「まことの」とい うことばがつけられているんですね。これは偽物でなく本物という意味ですよ ね。類似品やまがい物でなく、純正という意味があるわけです。この世の中に は「自分こそ救い主」と偽り、キリストを模倣し、道を外させてしまうような 働きがあることを聖書は語っています。
イエス様は、まことのぶどうの木です。つまり、イエス様こそ、まことの救 い主であり、人生の土台であり、すべての根源となられる方だということを聖 書は教えるんですね。教会の組織も、特定の団体も、優れた人物も、決してぶ どうの木の本体になることはできません。私たちが、いつもつながっていなけ ればならない幹は、まことのぶどうの木である、イエス・キリストご自身なん ですね。そして私たちはその枝なのです。