良きサマリヤ人

出演者
関根弘興
制作
PBA太平洋放送協会
再生時間
5min
タグ
  • 不安や恐れを感じているとき
  • 孤独や悲しみを覚えるとき

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アップロード日
2023.05.06
カテゴリ
人物・人生
聖書箇所
[新約聖書] ルカの福音書 10章
放送日
2023.05.06

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「世の光」の時間です。お元気でお過ごしでしょうか。関根弘興です。
今日はイエス・キリストが、ルカの福音書10章で話された「良きサマリア人」のたとえ話からお互いの人生を考えていきましょう。
ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で強盗に襲われ、半殺しにされ、倒れていました。すると神殿で仕える祭司やレビ人が倒れている人の前を通るのですが、近寄ろうともせず、反対側を通り過ぎていってしまいました。祭司もレビ人もずいぶん冷たいと思いますね。瀕死の重体で倒れている人を見たら、助けたいと思うのが普通です。でも、祭司もレビ人も助けたいという思いはあったかもしれません。しかし、あえて反対側を通り過ぎていってしまいました。
それには、ユダヤ社会の特有の理由があったのです。旧約聖書の律法では、死体に触れると宗教的に汚れた者となるので、しばらくの間、神殿での奉仕はできないことになってしまいます。彼らは、神様に仕える仕事をすることに熱心でした。神殿でいけにえをささげ、祈り、聖書を教え、身を汚さないように細心の注意を払って生活をしていました。けれども、実際には、神様が一番願っておられること、「隣人を愛すること」を実践するということ。これが抜けて落ちてしまっていたのです。
さて、次にサマリア人が通りかかりました。彼は、倒れている人を見てかわいそうに思い、近寄って傷の手当てをし、宿屋に連れて行って介抱しました。当時、ユダヤ人とサマリア人は長い歴史的な経緯のなかで犬猿の中でした。イエス様は「だれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか」と律法の専門家に尋ねました。すると、律法の専門家は、「その人にあわれみをかけてやった人です。」と答えたのです。一体、このサマリア人の姿は、何を表しているのでしょうか。 
実は、このサマリア人は、イエス・キリストご自身を表していると言っても良いのです。そして、瀕死の重傷を負って道端に倒れているのは、私たち一人一人の姿を表していると言って良いのです。傷だらけで、自分では何もできず、苦しみの中で死を待つしかない。しかし、そのような私たちを見て、イエス様は、かわいそうに思い、ご自分のほうから近づいてきてくださるお方です。
イエス・キリストこそ、隣人を愛されるまことのお方です。イエス様の愛は、民族の垣根を越え、ことばの壁を越え、国の壁を越えて、あらゆる人々に向かって広がっています。そして、その愛は、あなたのもとにも届いています。

コメント

中野周治
信仰は『信じる』と言う行いを伴っています!けれども行う力が在るのに、それを行わないのなら、それは信仰とは言えません!信仰は行いを伴っているからです!行う💪力が無い時は、『行う事が出来ます様に』と🙏祈れば🙆⭕️🆗良いのです!

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中野周治
信仰は『信じる』と言う行いと共に具体的な行動に移す事が必要です!『今、隣人に必要な(事・物)は何ですか?』と🙏祈れば良い🙆⭕️🆗のです!

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あかね
キリスト様は鎧を脱ぎ捨て、もとの優しい方に戻られました。はじめてお逢いしたときは怖い方だと感じましたが、ある鎧を脱ぎ捨てたとき驚きました。こんなにお優しいお方なのだと。私は色んな方々に生かされています。イエスキリスト様も私を助けてくださり、私をいかしてくださっております。

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Taki
祭司が手を職業上汚したくないから助けなかったという説明は余計ですね。これは例話にすぎません。むしろイエス様に敵対していたパリサイ人などに対しての皮肉ととらえるべきでしょう。
当時イエス様は医者を必要としている友となりそれを通して神の国の奥義を話されていたわけです。
つまりパリサイ人は自分が永遠の命を頂けると自覚していたのをイエス様は完全じゃないとお金持ちに伝えたように話されたと思われます。

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