あざけりを受けられたキリスト

出演者
岩井基雄
制作
PBA 太平洋放送協会
再生時間
5min
タグ
  • 孤独や悲しみを覚えるとき

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アップロード日
2022.10.20
カテゴリ
人物・人生
聖書箇所
[新約聖書] マルコの福音書 15章17~20節
[旧約聖書] イザヤ書 53章3~5節
放送日
2022.10.20

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「世の光」の時間です。お元気ですか。岩井基雄です。
私たちは人から傷つけられることを恐れますね。肉体的な傷以上に、心への傷は、より深い痛みを与えることもあります。受けた苦しみを他の人に話すことさえできないこともあるのです。イエス・キリストが、人としてこの地上に来られたのは、私たちの苦しみを共に味わうためでした。そして、私たちが受けるべき罪の裁きを身代わりに受け、私たちに罪の赦しと永遠のいのちを与えるために、十字架の苦しみへと向かわれたのです。
それは、あらゆる嘲りと屈辱的な扱い、また実際の傷を受ける歩みでした。キリストは、当時のユダヤの指導者たちに妬まれ、憎まれ、群衆たちも扇動されて「キリストを十字架につけろ」と叫び、キリストの弟子たちでさえ、キリストを裏切りました。それに加えて、ローマ兵たちによって、キリストは屈辱的な扱いを受け、惨い死刑の方法、十字架刑へと向かわされたのです。
聖書はこう記しています。「イエスに紫の衣を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ、…葦の棒でイエスの頭をたたき、唾をかけ、ひざまずいて拝んだ。彼らはイエスをからかってから、紫の衣を脱がせて、元の衣を着せた。それから、イエスを十字架につけるために連れ出した。」新約聖書 マルコの福音書15:17~20
それらの嘲りは、この出来事のおよそ700年前には旧約聖書に預言されていました。「彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。」旧約聖書 イザヤ書53:3~5
キリストが、すべての屈辱と嘲りを受け尽くしてくださったのは、私たちがいのちを得るためでした。キリストが受けた傷によって私たちは癒されることができるのです。私たちの最も深い痛みを理解できるこのイエス・キリストを通して、私たちは真の慰めと平安を受け取ることができるのです。あなたも今の苦しみや痛みを抱えたままキリストのもとにいきませんか。

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