バラバかキリストか

出演者
岩井基雄
制作
PBA 太平洋放送協会
再生時間
5min
タグ
  • 不安や恐れを感じているとき
  • 人を許すことが出来ないとき

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アップロード日
2022.08.26
カテゴリ
人物・人生
聖書箇所
[新約聖書] マルコの福音書 15章9~11節
放送日
2022.08.26

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「世の光」の時間です。お元気ですか。岩井基雄です。
イエス・キリストを憎み、殺害を願ったユダヤ当局者たちは、ユダヤの最高法院でキリストを、〝神を冒涜する者″すなわち自分を神と同等とした罪で有罪としました。しかし、ローマでも有罪にしなければ、死刑執行はできなかったのです。冒涜罪はローマでは無意味でした。そこでユダヤ当局者たちは、ローマ総督ピラトの前であらゆる訴えでキリストの罪を指摘します。しかし、ことごとく失敗します。
彼らの妬みを見抜いたピラトがちょうどユダヤの過ぎ越しの祭りの時だったので、祭りの時の恩赦を用いてキリストを釈放しようと考えたようです。
強盗や人殺しの理由で訴えられていたバラバを引き合いに出し、このバラバよりはキリストの恩赦を願うだろうとピラトは思ったようです。
聖書はこう語っています。
「ピラトは彼らに答えた。『おまえたちはユダヤ人の王を釈放してほしいのか。』ピラトは、祭司長たちがねたみからイエスを引き渡したことを、知っていたのである。しかし、祭司長たちは、むしろ、バラバを釈放してもらうように群衆を扇動した。」
新約聖書マルコの福音書15章9節~11節
ピラトの目論見は外れます。ユダヤの当局者たち、即ち祭司長たちは群集を扇動します。そしてバラバを許しキリストを「十字架につけろ」と人々に叫ばせたのです。
祭司長たちはピラトの弱点を知っていました。ローマから任命されていた総督ピラトも、群衆の暴動が起こると罷免される可能性があったからです。
さらに彼らはキリストを赦そうとする行為は、ローマ皇帝の反逆になるとほのめかします。それは決定的なことでした。ピラトはついに正しい判断をできず、キリストへの死刑の許可を与えてしまうのです。
しかし、この人間の判断や策略のすべての背後に神様の主権がありました。人間のあらゆる策略を越えて、人の罪を赦す神の愛の計画が進められていったのです。イエス・キリストは私たちのためにまっすぐに十字架に向かって下さったのです。
聖書のことば「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥(なだ)めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」
新約聖書ヨハネの手紙第一4章10節。

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