すべての人を照らすまことの光

出演者
板倉邦雄
制作
PBA 太平洋放送協会
再生時間
5min
タグ
  • 人を許すことが出来ないとき

もっと詳しく見る

アップロード日
2022.03.01
カテゴリ
人物・人生
聖書箇所
[新約聖書] ヨハネの福音書 1章9~11節
放送日
2022.03.01

いいね登録

     登録数:0

いいねリストを見る

「世の光」の時間です。いかがお過ごしですか。板倉邦雄です。今日は「すべての人を照らすまことの光」という題でお話しいたしましょう。
今日はヨハネの福音書の1章9節~11節となります。「まことの光であるイエス・キリストはすべての人を照らすためにこの世にきたのだ」と9節でヨハネは語ります。私たちすべての人間は、神のイメージによって造られています。まことの光であるイエス・キリストを心に感じることができるということです。
私たちは理性と良心が与えられているからです。神のイメージであるまことの知識と善悪を判断できる良心を持っています。
まことの光であるイエス・キリストに照らされて私たちの理性の光、また良心の光が輝くとき見えないものが見えてくるようになるのです。
しかし、私たちはこのまことの光であるイエス・キリストを拒みました。「彼は世にいた。世は彼によって造られたのに世は彼を知らなかった。」と10節にあります。
私たちは、自分から進んで心の目を閉じ、「この世は闇だ」と光を拒んでいるのではないでしょうか。「神はいない」と言いながら、神の恵みの光を受けているのです。
ある国の王様がいつも美味しい料理を作ってくれるコック長に、「いつも美味しい料理を作ってくれてありがとうよ」というと「王様、美味しい野菜を作ってくれる農夫に言ってください」と言います。農夫が呼ばれて王様がお礼を言うと、「そんだら王様、太陽を昇らせ、雨を降らせ、実りの季節を与えてくださる天の神様にお礼を言うてください」と農夫が言ったのです。
さらに、私たちは恵みを忘れるだけではなく、手に負えない悪意をもってまことの光であるイエス・キリストを拒みました。「彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受け入れなかった。」と11節にあります。
次のように訳す学者もいます。「彼は自分の家にきたのに、家の者たちは彼を受け入れなかった。」
この世界はキリストによってできたのです。イエス・キリストは創造と摂理の神でした。この世界は彼の家だったのです。神のひとり子が目に見える姿を持って、自分の家であるこの世界にきたのに、自分の家族はイエス・キリストを故意に受け入れませんでした。私もかつてその中の一人だったのです。

コメント

番組に対するコメントはまだありません。ぜひ感想をお願いいたします。

コメントを投稿する

お問い合わせ