どこまでも相手本位の愛
- 出演者
- 水谷 潔
- 制作
- PBA 太平洋放送協会
- 再生時間
- 5min
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- アップロード日
- 2025.05.29
- カテゴリ
- 人物・人生
- 聖書箇所
-
[新約聖書] コリント人への手紙第一 13章5節
- 放送日
- 2025.05.29
「世の光」の時間です。愛知県春日井市にあります春日井聖書教会・協力牧師の水谷潔です。
今日も、新約聖書、コリント人への手紙第一13章から「愛とは何であるか」をお話しします。新約聖書コリント人への手紙第一13章5節は愛についてこう記しています。「礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず」。
愛は「自分の利益を求めない」と聖書は言いますが、これは、自分の利益を相手より優先しないということです。愛は、相手を自分の利益の手段とはしません。愛とは、相手のために自分が犠牲を払って利益を図ることです。ところが、私たちは、「相手のため」と言いながら、自分の利益を求めてしまい、しかも、それに気付かないことがあるものです。
ある母親が子育てに行き詰まり、涙ながらにこう語るのをお聞きしたことがあります。「子どものため、子どものためと言いながら、結局は自分のためだったのです。良い子になって欲しかったのではなく、自分が良い子の親になりたかったのです。だから、いつも本人の意志ではなく、母親である自分の意向を押し付けてきました。自分の思い通りの子どもにして自分がよく思われたかっただけなのです」
「あなたのためなのよ」「おまえのために言っているんだぞ」、そんな親や大人や先輩たちのことばに、嘘臭さを感じたことはないでしょうか。「それ、本当は自分のためだろう」って、心の中で思ったことってないでしょうか。自分自身が語ってきた「あなたのため」は、本当にそうだったのでしょうか。相手を自分の思い通りにしようとして、そう言ってしまったということはないでしょうか。
愛だと信じてきたものがそうではなかったと示されるのは、悲しいことです。しかし、その悲しみは、希望に満ちた悲しみです。なぜなら、悲しみの中、偽物を捨ててこそ、本物を手にすることができるからです。
聖書は、愛について「自分の利益を求めず」と教えます。聖書が記す愛は、「どこまでも相手本位の愛」です。自分のための相手ではなく、相手のための自分です。そのような愛は、誰よりも神様の中にあります。神様はそのような愛で私たちを愛しておられます。神様と出会い、その愛を受け、同じ愛で、身近な人たちを愛してゆきませんか。
今日も、新約聖書、コリント人への手紙第一13章から「愛とは何であるか」をお話しします。新約聖書コリント人への手紙第一13章5節は愛についてこう記しています。「礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず」。
愛は「自分の利益を求めない」と聖書は言いますが、これは、自分の利益を相手より優先しないということです。愛は、相手を自分の利益の手段とはしません。愛とは、相手のために自分が犠牲を払って利益を図ることです。ところが、私たちは、「相手のため」と言いながら、自分の利益を求めてしまい、しかも、それに気付かないことがあるものです。
ある母親が子育てに行き詰まり、涙ながらにこう語るのをお聞きしたことがあります。「子どものため、子どものためと言いながら、結局は自分のためだったのです。良い子になって欲しかったのではなく、自分が良い子の親になりたかったのです。だから、いつも本人の意志ではなく、母親である自分の意向を押し付けてきました。自分の思い通りの子どもにして自分がよく思われたかっただけなのです」
「あなたのためなのよ」「おまえのために言っているんだぞ」、そんな親や大人や先輩たちのことばに、嘘臭さを感じたことはないでしょうか。「それ、本当は自分のためだろう」って、心の中で思ったことってないでしょうか。自分自身が語ってきた「あなたのため」は、本当にそうだったのでしょうか。相手を自分の思い通りにしようとして、そう言ってしまったということはないでしょうか。
愛だと信じてきたものがそうではなかったと示されるのは、悲しいことです。しかし、その悲しみは、希望に満ちた悲しみです。なぜなら、悲しみの中、偽物を捨ててこそ、本物を手にすることができるからです。
聖書は、愛について「自分の利益を求めず」と教えます。聖書が記す愛は、「どこまでも相手本位の愛」です。自分のための相手ではなく、相手のための自分です。そのような愛は、誰よりも神様の中にあります。神様はそのような愛で私たちを愛しておられます。神様と出会い、その愛を受け、同じ愛で、身近な人たちを愛してゆきませんか。
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