弟子の足を洗うイエス

出演者
関根弘興
制作
PBA 太平洋放送協会
再生時間
5min
タグ
  • 不安や恐れを感じているとき
  • 死や命について考えているとき
  • イースター

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アップロード日
2025.04.14
カテゴリ
人物・人生
放送日
2025.04.14

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「世の光」の時間です。お元気でお過ごしですか。関根弘興です。今週は、イエス・キリストが十字架につけられたことを覚える受難週です。
イエス様の生涯は、新約聖書の福音書に記されています。ちょうどユダヤ最大の祭り「過越祭」の時期でした。このお祭りが近づくと、世界中からユダヤ人たちが神殿のあるエルサレムに押し寄せ、たくさんの人であふれかえっていったのです。
イエス様が十字架につけられる前の日のことでした。イエス様は弟子たちと食卓に着き、なんと弟子たちの足を洗い始められたのです。普通、宴会の席に招待された客が足を洗ってもらうのは、その家に入る時でした。そして、足を洗うのは、もちろん奴隷の仕事です。サンダル履きで外を歩いたために汚れた足を奴隷に洗わせるわけです。ここに集まった弟子たちも、家に入るとき奴隷に洗ってもらったかどうかわかりませんが、普通は、すでに足を洗ってから食卓に着いているはずです。しかし、イエス様は食事をしている最中にわざわざ立ち上がり、上着を脱ぎ、腰をかがめて弟子たちの足を洗い始められたのです。
イエス様がここで、わざわざ食事の間に、弟子たちの足を洗われたということは、どのような意味が込められているのでしょう。それはイエス様がひとり一人に仕えるしもべとして来てくださったということを示しているのです。そして、イエス様は不思議なことを言われました。「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません」こう言われたのです。
あなたは、イエス様との関わりは、何によって始まると考えますか。何か立派なことをし、すばらしい功績をおさめたら、イエス様も喜んで関わってくださる、そう考えますか。聖書が私たちに教えていることは、もっとも汚れている足に象徴される、私たちのこころの汚さ、罪をイエス様によって洗っていただくことからイエス様との関係はスタートするんですよ、と教えるのですね。
普通は、人の汚い部分とは関わりたくないものです。そして自分の汚い部分は隠したいものですよね。しかし、イエス様が来られた目的は、私たちのありのままをご覧になって、私たちの最も汚い部分を、罪を、洗い清めるために来てくださったのです。そして、そのためのたったひとつの方法は、いったい何だったのでしょう。それは、自らが私たちの罪の身代わりとなって十字架についてくださるという、不思議な、不思議な道だったのです。

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