人生を覆う影-虚無感
- 出演者
- 関根弘興
- 制作
- PBA 太平洋放送協会
- 再生時間
- 5min
- タグ
-
- 疲れているとき
- 不安や恐れを感じているとき
- 孤独や悲しみを覚えるとき
- 元気をもらいたいとき
- 一歩踏み出したいとき
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- アップロード日
- 2025.02.05
- カテゴリ
- 人物・人生
- 聖書箇所
-
[旧約聖書] 詩篇 121篇1~2節
- 放送日
- 2025.02.05
「世の光」の時間です。お元気でお過ごしですか?関根弘興です。
今、多くの人のこころを覆い、人生をつまらないものだと思わせてしまう、まるで人生を覆う影のような、または雲のようなものがいくつかあると思います。
そのひとつは、自分に対する無価値感。そして、昨日は、「孤独感」であるとお話をしました。そして、私たちの人生を覆う影、3つめは虚無感。むなしさです。
むなしさというのは、そこに意味とか目的を見いだすことができなくなったときに、生まれてきます。人は、意味が無いと思ったら何もしたくなくなります。たとえば、私がお話をしているときに、係の人に「水をください」と頼めば、係の人は水を持ってきてくれます。係の人は「きっと関根さんは話をして喉が渇いたのだろう」と思い、持ってくるわけです。でも、私がその水を床にジャーとこぼして、係の人に「すみません。床を拭いてください」と頼んだらどうでしょう。きっと何も考えず最初は床を拭くでしょうね。でも、これを繰り返したらどうなると思いますか。すみません、水をください。そして、ジャーとこぼして、すみません、床拭いてください!そして、また、水をください、ジャーとこぼして、床拭いてください。こんなことを繰り返したら、きっとですね、最初は、何か意味があるのかと思ったけど、なんだろう。繰り返しているうちに、やっていることの意味がわからない、というふうになってくるわけです。しまいには「そんなわけのわからないことなどできません」と言われてしまうでしょう。そうなんです。人は、わけのわからないことは、やりたくない、できないんです。
私たちは毎日、同じような生活、日々を送っています。そうした中で、ときどき、生きている意味があるのだろうか、同じ事の繰り返しではないか、私が私である理由はいったいどこにあるのだろう、そう考えてしまうことがありますね。
聖書はなんと言っているのでしょう。詩篇121篇の1-2節にはこう書かれています。「私は山に向かって目を上げる。私の助けはどこから来るのか。私の助けは主から来る。天地を造られたお方から」こう記されているのです。つまり、聖書は、天地を創られた神様がおられ、あなたにいのちを与えたお方が聖書の神様なんですよ、と教えているのです。とするなら、そこにはいのちが与えられた意味と目的が必ず存在するのです。それは、ずばり「神様の愛の中に生きよ」ということなのですね。
今、多くの人のこころを覆い、人生をつまらないものだと思わせてしまう、まるで人生を覆う影のような、または雲のようなものがいくつかあると思います。
そのひとつは、自分に対する無価値感。そして、昨日は、「孤独感」であるとお話をしました。そして、私たちの人生を覆う影、3つめは虚無感。むなしさです。
むなしさというのは、そこに意味とか目的を見いだすことができなくなったときに、生まれてきます。人は、意味が無いと思ったら何もしたくなくなります。たとえば、私がお話をしているときに、係の人に「水をください」と頼めば、係の人は水を持ってきてくれます。係の人は「きっと関根さんは話をして喉が渇いたのだろう」と思い、持ってくるわけです。でも、私がその水を床にジャーとこぼして、係の人に「すみません。床を拭いてください」と頼んだらどうでしょう。きっと何も考えず最初は床を拭くでしょうね。でも、これを繰り返したらどうなると思いますか。すみません、水をください。そして、ジャーとこぼして、すみません、床拭いてください!そして、また、水をください、ジャーとこぼして、床拭いてください。こんなことを繰り返したら、きっとですね、最初は、何か意味があるのかと思ったけど、なんだろう。繰り返しているうちに、やっていることの意味がわからない、というふうになってくるわけです。しまいには「そんなわけのわからないことなどできません」と言われてしまうでしょう。そうなんです。人は、わけのわからないことは、やりたくない、できないんです。
私たちは毎日、同じような生活、日々を送っています。そうした中で、ときどき、生きている意味があるのだろうか、同じ事の繰り返しではないか、私が私である理由はいったいどこにあるのだろう、そう考えてしまうことがありますね。
聖書はなんと言っているのでしょう。詩篇121篇の1-2節にはこう書かれています。「私は山に向かって目を上げる。私の助けはどこから来るのか。私の助けは主から来る。天地を造られたお方から」こう記されているのです。つまり、聖書は、天地を創られた神様がおられ、あなたにいのちを与えたお方が聖書の神様なんですよ、と教えているのです。とするなら、そこにはいのちが与えられた意味と目的が必ず存在するのです。それは、ずばり「神様の愛の中に生きよ」ということなのですね。
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