自分の罪のうちに死ぬ
- 出演者
- 板倉邦雄
- 制作
- PBA 太平洋放送協会
- 再生時間
- 5min
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- アップロード日
- 2025.01.23
- カテゴリ
- 人物・人生
- 聖書箇所
-
[新約聖書] ヨハネの福音書 8章21~24節
[新約聖書] ヨハネの福音書 3章16節
- 放送日
- 2025.01.23
「世の光」の時間です。いかがお過ごしですか。板倉邦雄です。
今日は「自分の罪のうちに死ぬ」という題でお話しましょう。人は必ず死ぬ者です。ですから、今をどう生きるかが大切なのです。では人はなぜ死ぬのか。私たちが死ぬ時は病名が付いて死にます。ですから病気で死ぬと考えます。ところがイエス様は、私たちは自分の罪のうちに死ぬであろうと言われました。ヨハネ福音書8章21節からです。
さて、イエス様は神殿のさいせん箱のそばに集まった人々に向かって言われました。「わたしは去っていく。あなたがたはわたしを捜し求めるであろう。そして自分の罪のうちに死ぬであろう。わたしの行く所には、来ることができない」するとユダヤ人たちは言いました。「わたしの行く所に、あなたがたは来ることができないと、言ったのは、あなたは自殺でもするつもりですか」するとイエス様はユダヤ人たちにこう答えたのです。「あなたがたは下から出た者だが、わたしは上から来た者である。あなたがたはこの世の者であるが、わたしはこの世の者ではない。だからわたしは、あなたがたは自分の罪のうちに死ぬであろうと、言ったのである。もしわたしがそういう者であることをあなたがたが信じなければ、罪のうちに死ぬことになるからである」
人は三度死ぬ、と聖書は教えています。罪深い生活をしていますと生きた屍のようになり、生きているのは名ばかりで実は死んでいる人生です。次に肉体の死があります。三度目は永遠の死が待っている、と聖書は教えています。私たちが死ぬのは病気ではなく、罪と罪深い生活によって死ぬのです。罪の支払う報酬は死であると聖書は教えています。しかし、この世の者ではなく、天から来た者であるイエス・キリストを信じ繋がった人は、罪のうちに死ぬことはなく、永遠のいのちを持つことができます。「罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである」と聖書は約束しています。
聖書のことばです。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(ヨハネの福音書3章16節)
今日は「自分の罪のうちに死ぬ」という題でお話しましょう。人は必ず死ぬ者です。ですから、今をどう生きるかが大切なのです。では人はなぜ死ぬのか。私たちが死ぬ時は病名が付いて死にます。ですから病気で死ぬと考えます。ところがイエス様は、私たちは自分の罪のうちに死ぬであろうと言われました。ヨハネ福音書8章21節からです。
さて、イエス様は神殿のさいせん箱のそばに集まった人々に向かって言われました。「わたしは去っていく。あなたがたはわたしを捜し求めるであろう。そして自分の罪のうちに死ぬであろう。わたしの行く所には、来ることができない」するとユダヤ人たちは言いました。「わたしの行く所に、あなたがたは来ることができないと、言ったのは、あなたは自殺でもするつもりですか」するとイエス様はユダヤ人たちにこう答えたのです。「あなたがたは下から出た者だが、わたしは上から来た者である。あなたがたはこの世の者であるが、わたしはこの世の者ではない。だからわたしは、あなたがたは自分の罪のうちに死ぬであろうと、言ったのである。もしわたしがそういう者であることをあなたがたが信じなければ、罪のうちに死ぬことになるからである」
人は三度死ぬ、と聖書は教えています。罪深い生活をしていますと生きた屍のようになり、生きているのは名ばかりで実は死んでいる人生です。次に肉体の死があります。三度目は永遠の死が待っている、と聖書は教えています。私たちが死ぬのは病気ではなく、罪と罪深い生活によって死ぬのです。罪の支払う報酬は死であると聖書は教えています。しかし、この世の者ではなく、天から来た者であるイエス・キリストを信じ繋がった人は、罪のうちに死ぬことはなく、永遠のいのちを持つことができます。「罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである」と聖書は約束しています。
聖書のことばです。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(ヨハネの福音書3章16節)
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