血筋とは一切関係がない

出演者
福井 誠
制作
PBA 太平洋放送協会
再生時間
5min
タグ
  • 元気をもらいたいとき

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アップロード日
2024.10.15
カテゴリ
人物・人生
聖書箇所
[新約聖書] マタイの福音書 3章9節
放送日
2024.10.15

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「世の光」の時間です。いかがお過ごしでしょうか?今週は福井誠が担当しています。昨日からマタイの福音書を読み進めています。今日は、「血筋とは一切関係がない」と題してメッセージをいたします。新約聖書マタイの福音書3章9節をお読みします。 

「あなたがたは、『われわれの父はアブラハムだ』と心の中で思ってはいけません。言っておきますが、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子らを起こすことができるのです」   

「われわれの父はアブラハムだ」ということばは、当時のユダヤ人にはよく使われたことばです。それは一種、自慢めいた言い方で、自分たちが神に愛されたアブラハムの子孫であること、つまり、神の特別な加護の下にある民族の一員だ、と主張するような言い方でした。しかし、預言者のバプテスマのヨハネは、それは考え違いだ、と言うのです。神は、アブラハムなどとは全く関係のない、人間でもない「これらの石ころからでも」アブラハムの子孫と呼ぶような者を起こすことができる。つまりアブラハムと同じように、神に愛される信仰者になることは、血筋とは一切関係のない事だ、と言うのです。 
確かに、信仰を持つことは個人的な経験です。熱心な信仰の両親のもとに生まれたからその子も信仰者である、あるいは先祖代々キリスト教を信じてきた家柄にあるから自動的に信仰者となることはありません。たとえそのような両親や家系に生まれたとしても、人は個人的に神と向かい合って、神の前に罪を悔い改めて、イエスの十字架にある罪の赦しに対する信仰を告白して、信仰者となっていくのです。 
またさらに言えば、日々、誰かの信仰にあやかって信仰を続けることもありません。自立的に、神を呼び求め、心を通わす時を持ち、神のことばに生きていく、そのような主体的な信仰によってこそ、アブラハムの子孫、神に愛される信仰者になれるのです。神は、私たちに個別に関わり、個別に祝福してくださる方であることを覚えましょう。 

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