十字架のことば③

出演者
関根弘興
制作
PBA太平洋放送協会
再生時間
5min
タグ
  • 人を許すことが出来ないとき
  • イースター

もっと詳しく見る

アップロード日
2024.03.29
カテゴリ
人物・人生
聖書箇所
[新約聖書] マタイの福音書 27章
[新約聖書] ヨハネの福音書 19章30節
放送日
2024.03.29

いいね登録

     登録数:10

いいねリストを見る

「世の光」の時間です。お元気でお過ごしでしょうか。関根弘興です。
今週はイエス・キリストがどうして十字架につけられたのか、ご一緒に考えています。イエス様はその口にいつわりはなく、罪のない正しいお方でした。しかし、イエス様はむごたらしい十字架につけられました。イエス様が十字架につけられたのは、午前九時でした。しかし、十二時になったとき、突然全地が暗くなり、三時まで続きました。そんな中で、イエス様は、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれました。訳すと「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と言う意味です。悲痛な叫びです。ある人はこのことばを読んで、「神に見捨てられたのだから、イエスの十字架は失敗だった」と言う人がいます。しかし、それは、聖書もイエス様の十字架の意味も全く知らないからそう言うのです。
聖書は、イエス様の十字架は、私たちの代わりに罪を背負い、罪の罰と呪いをその身にすべて引き受けてくださったものだ、と教えています。私たちの罪を背負い、罪なきイエス様が罪人となってくださったということは、愛と義といのちの源である父なる神様との関係が完全に絶たれるということを意味しているのです。正しい神様は罪ある者と交わることが出来ないからです。つまり、イエス様が十字架で「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれたのは、歴史上、世界中でたったひとりイエス様だけが、私たちの罪を背負って、愛なる神様から引き離され、罪の苦しみをその身に一心に背負われたことの叫びなのです。
 そして、イエス様は、「完了した」と言われました。このことばは「成就した」「成し遂げた」という意味です。もし十字架が失敗なら「失敗した」と言うでしょう。また、もし、意に反して十字架につけられたのなら、「やり残したことがまだある!」「不当な仕打ちだ」と叫ぶのではないでしょうか。しかし、イエス様は、「完了した」と言われました。それは、イエス様が十字架につけられることによって、救いのみわざが完成した、と言う宣言なのです。イエス様の十字架によって、私たちの罪が赦される道が開かれました。十字架は、決して偶発的な出来事ではありません。最初から神様のご計画によって定められ、イエス様がその神様のみこころに従って自ら進んで十字架にかかり、想像を絶する苦しみを味わい、救いのみわざを完了してくださったのです。

コメント

番組に対するコメントはまだありません。ぜひ感想をお願いいたします。

コメントを投稿する

お問い合わせ