心にかけておられる

出演者
藤本 満(インマヌエル高津キリスト教会)
制作
PBA太平洋放送協会
再生時間
5min
タグ
  • 不安や恐れを感じているとき
  • 孤独や悲しみを覚えるとき

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アップロード日
2024.01.09
カテゴリ
人物・人生
聖書箇所
[新約聖書] マルコの福音書 4章38、40節
[新約聖書] ヨハネの福音書 10章13節
放送日
2024.01.09

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「世の光」の時間です。神奈川県川崎市にある、インマヌエル高津教会の牧師、藤本満です。
今日は、昨日と同じ聖書の箇所から「心にかけておられる」と題してお話しします。新約聖書マルコの福音書4章40節で、嵐に怯える弟子たちにイエスが語られました。「どうして怖がるのですか。まだ信仰がないのですか」信仰がない――信仰を持つ以前も、またイエスに従うようになってからも、この課題を抱えています。弟子たちも、また私たちも。人生に嵐が吹くと、途端に信仰がなくなってしまったかのように、不安を感じます。物語には、信仰がないとまで言われてしまうことばがあります。
それは、嵐の恐怖で弟子たちが発した、4章38節のことばです。「先生。私たちが死んでも、かまわないのですか」 ――死んでもかまわない、元のことばは、「気にも留めない」の一語です。このことばは、ヨハネの福音書の10章にも用いられています。イエスはご自分を指しておっしゃいました。「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます」しかし当時の宗教家は、自分を優先して、何かあれば羊を置き去りにする雇い人の羊飼いだというのです。
ヨハネの福音書10章13節には、「彼は雇い人で、羊たちのことを心にかけていない」とあります。「心にかけていない」――これが弟子たちが叫んだのと同じことばです。舟が沈みそう、イエスは私のことなど気にかけていない。イエスが、気にかけていないなどありえません。良き羊飼いは羊のためにいのちを捨てるのですから。
でも私たちは、やっぱり嵐という現実問題に直面したとき、まるでイエスが気にもかけておられないかのように、神の沈黙を経験することがあります。祈ってもなんの答えもない。しかも、何年も、何十年も祈っているのに。そのようなうめきを、イエスを信じているキリスト者でも、日常的に感じています。
しかし、「世の光」を聞きながら、十字架のイエスを見上げます。私のことなど気にかけていないのではない、この方は私のためにいのちをお捨てになりました。

コメント

amenです。
しかし、「世の光」を聞きながら、十字架のイエスを見上げます。私のことなど気にかけていないのではない、この方は私のためにいのちをお捨てになりました。

amen!
祈り続けます!メッセージありがとうございます。

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