自分を人に委ねない

出演者
板倉邦雄
制作
PBA 太平洋放送協会
再生時間
5min
タグ
  • 不安や恐れを感じているとき
  • 孤独や悲しみを覚えるとき

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アップロード日
2022.09.12
カテゴリ
人物・人生
聖書箇所
[新約聖書] ヨハネの福音書 2章24、25節
[新約聖書] ヨハネの福音書 15章5節
放送日
2022.09.12

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「世の光」の時間です。いかがお過ごしですか。板倉邦雄です。
今日は「自分を人に委ねない」という題でお話ししましょう。初めにヨハネの福音書の2章24節と25節をお読みします。
「しかし、イエスご自身は、彼らに自分をお任せにならなかった。すべての人を知っていたので、人についてだれの証言も必要とされなかったからである。」
今日はこのイエス様のことばからなぜイエス様は人々にご自身を委ねられなかったのかということをお話ししましょう。
さて、イエス様は過ぎ越しの祭の間、エルサレムの都にとどまっていました。その間、イエス様は多くのしるしと奇跡を行いました。それを見て、多くの人々はイエスの名を信じたのです。「イエスの名を信じた」とは、イエス様がキリストすなわち救世主であると信じたということです。それは、イエス様がなさった目に見える奇蹟を通して信じたのです。
「このようなしるしや奇跡を行うことができるイエス様は必ず私たちの期待に応えてくださるに違いない」そのような期待を込めて、イエス様の名を信じたのです。
ですから、イエス様ご自身はご自分を信じた人々に自分をお任せになりませんでした。その理由をヨハネは次のように説明しています。それは、すべての人を知っておられたからです。それは、自分を信じ受け入れた人々の心の動機や思いのすべてをイエス様は知っていたということです。神のひとり子イエス・キリストは、私たち人間のうちに隠されていて私たちには見えない人の心の中までもすべて知っておられるということです。
ですから、ご自分を信じた人々がどのような人なのか他人様から教えられる必要はなかったのです。人について証しするものを必要とされなかったということばはそのような意味を示しているのです。
では、翻って私たちはどのような心でイエス様を信じ従っているのでしょうか。どのような動機と目的でイエス様の名を信じているかということです。イエス様はすべての人の心の根っこまで知っておられる方ですね。
イエス・キリストのことばです。
「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。」ヨハネの福音書15章5節

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