他人の態度から解放されて起き上がる

出演者
水谷潔
制作
PBA 太平洋放送協会
再生時間
5min
タグ
  • 孤独や悲しみを覚えるとき
  • 一歩踏み出したいとき

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アップロード日
2022.09.21
カテゴリ
人物・人生
聖書箇所
[新約聖書] ヨハネの福音書 5章
放送日
2022.09.21

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「世の光」の時間です。いかがお過ごしでしょうか。愛知県にあります春日井聖書教会協力牧師の水谷潔です。
新約聖書のヨハネの福音書5章の前半は38年間病気であった男性とイエス様との出会いを記しています。彼は「水が動いたとき最初に入った者は病気が癒やされる」という言い伝えのあるベテスダの池の近くで長く寝床に伏せっていました。
イエス様から「良くなりたいか」と愛をもって問いかけられたとき、彼は素直に良くなりたいと言うことはできませんでした。そして、こう訴えます。「主よ。水がかき回されたとき、池の中に入れてくれる人がいません。」
最初に池に入って癒やされたいのに、自分を入れてくれる人がいない、だから良くなれないということでしょう。彼は自分に対しての人の態度を言い訳にして本来の良くなりたいという思いを失っていたのです。
私たちも同じことがないでしょうか。子どもの時は親がしてくれないから…先生が何々してくれないから…大人になれば上司や部下が何々してくれないから…夫や妻、家族が何々してくれないから…だから自分は良くなれないのです。そのように、自分に対する人の態度を寝床にして自分の足で立ち上がって歩もうとしない、そうしたことはないでしょうか。
そこでお尋ねします。願うことをしてくれなかった相手がしてくれるように変わって、そして自分が良くなったそんな経験あるでしょうか。ほとんどないんじゃないかと思います。
そうです。相手や周囲が変わるのを待っていたら、いつまでも良くなることはできません。人は変えられませんが、自分は変えられます。イエス様がベテスダの池にいたこの男性になさったのは、まさにそのことでした。イエス様は水が動くのを待って、この男性を池に入れたのではありません。誰か池に入れてくれる人を探しに行ったのでもありません。彼が願ったこと何一つしていません。ただ、ただ彼に命じたのです。「起きて床を取り上げ、歩きなさい」
すると、彼の病は癒やされ、彼自身の力で起き上がり、歩いて行ったのです。今もイエス様は人の態度を寝床のようにして立ち上がろうしない、そんな私たちに良くなりたいかと問いかけてくださいます。「起きて床を取り上げ、歩きなさい」と命じ立ち上がらせてくださいます。ベテスダの池にいた男性のようにイエス様と出会い、新しい歩みを始めましょう。

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