内臓~憐みの宿る場所~
- 出演者
- 井本祐介
- 制作
- PBA 太平洋放送協会
- 再生時間
- 5min
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- アップロード日
- 2025.10.07
- カテゴリ
- 人物・人生
- 聖書箇所
-
[新約聖書] ルカの福音書 15章20節
- 放送日
- 2025.10.07
「世の光」の時間です。東京都羽村市にある、おざく台教会の牧師、井本祐介です。平日は、中学と高校で理科の教師もしています。
最初に聖書のことばを読みます。新約聖書ルカの福⾳書15章20節「⽗親は彼を⾒つけて、かわいそうに思い、駆け寄って彼の⾸を抱き、⼝づけした」
あなたの⼼はどこにありますか。脳や⼼臓、そう答えたかもしれません。⼀⽅で、古代の⼈は、⼼は内臓に宿る、そう考えました。胸が痛む、腹が⽴つ、断腸の思い、などの表現があるように、⼼と体とは確かに深く結びついています。
⼼が揺さぶられれば、⼼臓の⿎動は早まります。⼼に⼤きなストレスがかかると、体調を崩します。内臓は変調をきたし、胃液の中の塩酸が胃に⽳を開けてしまいます。胃潰瘍は古代においてはいのちにも関わりました。⼼と体とは切っても切り離せないのです。
今⽇の聖書のことばにも、内臓、ということばが隠れていました。どこだか分かりましたか。実は、「かわいそうに思い」ということばなんです。このことばは、ギリシャ語ではスプランクニゾマイ、といい、スプランクナが内臓で、内臓がねじ切れるほどのあわれみ、断腸の思いを意味します。聖書では神の⼼を表すために使われています。
つまり、聖書の神にとって、私たちの苦しむ姿は、⾝体に変調をきたすほどの⼤きなストレスなのです。私たちの悲しみや痛みは、神にとっても⼤きな悲しみや痛みであり、私たちのために神は居ても⽴ってもいられなくなるのです。
神は遠く離れた存在、そう考えてはいませんか。違うのです。聖書の神は、⼈の苦しむ姿を⾒て、自分のこととして苦しむ神なのです。私たちの悲しみを見て、いてもたってもいられず、⾃ら⼈となり、悲しむ⼈に寄り添い、⼈の悲しみや痛みや罪を⾃ら背負い、⼗字架にかかった。そう聖書は語ります。
⼈間に影響される神、⼈間に動かされる神、これは理性的で不動な神のイメージとは異なります。けれど、そこまで私たちを想う神だからこそ、私はこの神を信じました。そこまであなたを想う神がいることをどうか忘れないでください。
最初に聖書のことばを読みます。新約聖書ルカの福⾳書15章20節「⽗親は彼を⾒つけて、かわいそうに思い、駆け寄って彼の⾸を抱き、⼝づけした」
あなたの⼼はどこにありますか。脳や⼼臓、そう答えたかもしれません。⼀⽅で、古代の⼈は、⼼は内臓に宿る、そう考えました。胸が痛む、腹が⽴つ、断腸の思い、などの表現があるように、⼼と体とは確かに深く結びついています。
⼼が揺さぶられれば、⼼臓の⿎動は早まります。⼼に⼤きなストレスがかかると、体調を崩します。内臓は変調をきたし、胃液の中の塩酸が胃に⽳を開けてしまいます。胃潰瘍は古代においてはいのちにも関わりました。⼼と体とは切っても切り離せないのです。
今⽇の聖書のことばにも、内臓、ということばが隠れていました。どこだか分かりましたか。実は、「かわいそうに思い」ということばなんです。このことばは、ギリシャ語ではスプランクニゾマイ、といい、スプランクナが内臓で、内臓がねじ切れるほどのあわれみ、断腸の思いを意味します。聖書では神の⼼を表すために使われています。
つまり、聖書の神にとって、私たちの苦しむ姿は、⾝体に変調をきたすほどの⼤きなストレスなのです。私たちの悲しみや痛みは、神にとっても⼤きな悲しみや痛みであり、私たちのために神は居ても⽴ってもいられなくなるのです。
神は遠く離れた存在、そう考えてはいませんか。違うのです。聖書の神は、⼈の苦しむ姿を⾒て、自分のこととして苦しむ神なのです。私たちの悲しみを見て、いてもたってもいられず、⾃ら⼈となり、悲しむ⼈に寄り添い、⼈の悲しみや痛みや罪を⾃ら背負い、⼗字架にかかった。そう聖書は語ります。
⼈間に影響される神、⼈間に動かされる神、これは理性的で不動な神のイメージとは異なります。けれど、そこまで私たちを想う神だからこそ、私はこの神を信じました。そこまであなたを想う神がいることをどうか忘れないでください。
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