『完了した』と言える人生を
- 出演者
- 加藤勇介(日本同盟基督教団 東広島めぐみ教会 牧師)
- 制作
- PBA太平洋放送協会
- 再生時間
- 5min
- タグ
-
- 孤独や悲しみを覚えるとき
- 元気をもらいたいとき
- 一歩踏み出したいとき
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- アップロード日
- 2023.09.27
- カテゴリ
- 人物・人生
- 聖書箇所
-
[新約聖書] ヨハネの福音書 19章30節
- 放送日
- 2023.09.27
「世の光」の時間です。いかがお過ごしでしょうか。広島県東広島市にあります、東広島めぐみ教会、牧師の加藤勇介です。
私は牧師になる前、老人保健施設でリハビリの仕事をしていました。人生の大先輩である方々の笑顔と優しいことばに、指導する私の方が、何度となく励まされました。
一方、多くのご老人が、「昔はよかった」と、過去をなつかしみながら、現状を憂い、将来に希望を持つことができず、「早く迎えが来んかのぉ」と、夕映えの空を見つめておられました。こうした方々に、イエス・キリストにある永遠のいのちの希望と喜びをお届けしたい、との願いが与えられたことも、牧師として導かれる一因になったと思います。
さて聖書には、十字架にかけられたイエス様が発したことばが7つ、記されていますが、その1つに、「完了した」(ヨハネによる福音書19章30節)ということばがあります。
「完了した」、それは「目的を達成した」「やり切った」、だから「悔いはない」という意味です。十字架の苦しみ、犯罪者としての汚名、人々からの侮辱と嘲り、さらには弟子たちの裏切り。33年半と言われるイエス様の生涯は、今の私たちからすれば、極めて短命であり、またその最期を思うときに、人間的には、はなはだ「未完了」、「不完全燃焼」であったと、言わざるを得ないでしょう。
けれどもイエス様は、十字架上の死を目前に、「完了した」と、ご自身の生涯を肯定されました。それはすべてが父なる神様の御手の中にあること、そのご計画の中に生かされていることを知っておられたからです。
思うようにはいかず、願うようには進んではいかない、そんな私たちの人生も、造り主なる神様の御手の中に、しっかりと握りしめられています。
私たちにも、与えられた生涯を「完了した」と肯定できる恵みが、また、今日一日を感謝できる歩みが、救い主イエス・キリストによって備えられています。
私たちに、死で終わらない、永遠のいのちの希望と喜びを与えるために、よみがえって、今も生きておられる主イエス様への信頼をもって、「完了した」、「やり切った」と言える人生を、また今日一日を、あなたにも歩んでいただきたいと思います。
私は牧師になる前、老人保健施設でリハビリの仕事をしていました。人生の大先輩である方々の笑顔と優しいことばに、指導する私の方が、何度となく励まされました。
一方、多くのご老人が、「昔はよかった」と、過去をなつかしみながら、現状を憂い、将来に希望を持つことができず、「早く迎えが来んかのぉ」と、夕映えの空を見つめておられました。こうした方々に、イエス・キリストにある永遠のいのちの希望と喜びをお届けしたい、との願いが与えられたことも、牧師として導かれる一因になったと思います。
さて聖書には、十字架にかけられたイエス様が発したことばが7つ、記されていますが、その1つに、「完了した」(ヨハネによる福音書19章30節)ということばがあります。
「完了した」、それは「目的を達成した」「やり切った」、だから「悔いはない」という意味です。十字架の苦しみ、犯罪者としての汚名、人々からの侮辱と嘲り、さらには弟子たちの裏切り。33年半と言われるイエス様の生涯は、今の私たちからすれば、極めて短命であり、またその最期を思うときに、人間的には、はなはだ「未完了」、「不完全燃焼」であったと、言わざるを得ないでしょう。
けれどもイエス様は、十字架上の死を目前に、「完了した」と、ご自身の生涯を肯定されました。それはすべてが父なる神様の御手の中にあること、そのご計画の中に生かされていることを知っておられたからです。
思うようにはいかず、願うようには進んではいかない、そんな私たちの人生も、造り主なる神様の御手の中に、しっかりと握りしめられています。
私たちにも、与えられた生涯を「完了した」と肯定できる恵みが、また、今日一日を感謝できる歩みが、救い主イエス・キリストによって備えられています。
私たちに、死で終わらない、永遠のいのちの希望と喜びを与えるために、よみがえって、今も生きておられる主イエス様への信頼をもって、「完了した」、「やり切った」と言える人生を、また今日一日を、あなたにも歩んでいただきたいと思います。