心にナイフを持つことのない愛
- 出演者
- 水谷 潔
- 制作
- PBA 太平洋放送協会
- 再生時間
- 5min
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- アップロード日
- 2025.05.30
- カテゴリ
- 人物・人生
- 聖書箇所
-
[新約聖書] コリント人への手紙第一 13章5節
- 放送日
- 2025.05.30
「世の光」の時間です。愛知県春日井市にあります春日井聖書教会・協力牧師の水谷潔です。
今日も、新約聖書、コリント人への手紙第一13章が記す「愛とは何であるか」についてお話しします。新約聖書コリント人への手紙第一13章5節には愛についてこう記されています。「礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず」
「愛は苛立たない」と聖書は言います。ここでの苛立ちは、何に対してでしょう。「苛立たず」の直前には、「礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず」とあります。私たちは時に、親しいからと言って愛を名目にして、礼儀に反することをしてまで、誰かに対して自分の利益を求めます。
しかし、相手が自分の思い通りにならないと苛立ちます。ここでの苛立ちは、そうした苛立ちです。相手の事を思っての苛立ちではありません。相手が自分の思い通りにならないから、発する苛立ち、自分中心の苛立ちです。どうでしょう。親子、夫婦、親友、恋人など、親しい関係、愛の関係の中でこそ、こうした苛立ちは生ずるのではないでしょうか。
実は、今日お読みした聖書の「苛立つ」というこのことばには、「ナイフの刃先」という意味があります。「ナイフの刃先」のように敏感に反応して、相手を突き刺すというニュアンスを持つことばなのです。思い通りにならない相手に、すぐ報復しようとして、ナイフのように心を尖らせる苛立ちを意味するわけです。
もし、私たちの心に本当の愛があるならば、相手が思い通りにならなくても、そう簡単に苛立つことはないでしょう。聖書が記す愛は「心にナイフを持つことのない愛」です。その愛は、思い通りにならない現実の相手を受け止める余裕を心に生み出します。
聖書は愛について「苛立たず」と記します。愛する相手が自分の思い通りにならない時こそ、愛は試されます。苛立ちが込み上げてきたときこそ、今日の聖書のことばを思い起こしてください。そして、苛立ちを押さえつけるのではなく、神様の前に認めて、神様に助けていただき、その苛立ちを手放していきましょう。神様を信じ、共に歩むなら、神様はあなたを苛立つことのない愛の人へと作り変えてくださいます。
今日も、新約聖書、コリント人への手紙第一13章が記す「愛とは何であるか」についてお話しします。新約聖書コリント人への手紙第一13章5節には愛についてこう記されています。「礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず」
「愛は苛立たない」と聖書は言います。ここでの苛立ちは、何に対してでしょう。「苛立たず」の直前には、「礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず」とあります。私たちは時に、親しいからと言って愛を名目にして、礼儀に反することをしてまで、誰かに対して自分の利益を求めます。
しかし、相手が自分の思い通りにならないと苛立ちます。ここでの苛立ちは、そうした苛立ちです。相手の事を思っての苛立ちではありません。相手が自分の思い通りにならないから、発する苛立ち、自分中心の苛立ちです。どうでしょう。親子、夫婦、親友、恋人など、親しい関係、愛の関係の中でこそ、こうした苛立ちは生ずるのではないでしょうか。
実は、今日お読みした聖書の「苛立つ」というこのことばには、「ナイフの刃先」という意味があります。「ナイフの刃先」のように敏感に反応して、相手を突き刺すというニュアンスを持つことばなのです。思い通りにならない相手に、すぐ報復しようとして、ナイフのように心を尖らせる苛立ちを意味するわけです。
もし、私たちの心に本当の愛があるならば、相手が思い通りにならなくても、そう簡単に苛立つことはないでしょう。聖書が記す愛は「心にナイフを持つことのない愛」です。その愛は、思い通りにならない現実の相手を受け止める余裕を心に生み出します。
聖書は愛について「苛立たず」と記します。愛する相手が自分の思い通りにならない時こそ、愛は試されます。苛立ちが込み上げてきたときこそ、今日の聖書のことばを思い起こしてください。そして、苛立ちを押さえつけるのではなく、神様の前に認めて、神様に助けていただき、その苛立ちを手放していきましょう。神様を信じ、共に歩むなら、神様はあなたを苛立つことのない愛の人へと作り変えてくださいます。
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