わたしは世の光である
- 出演者
- 板倉邦雄
- 制作
- PBA 太平洋放送協会
- 再生時間
- 5min
- タグ
-
- クリスマス
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- アップロード日
- 2019.12.24
- カテゴリ
- 人物・人生
- 放送日
- 2019.12.24
「世の光」の時間です。いかがお過ごしですか、板倉邦雄です。
まず初めに、ヨハネの福音書8章12節を読みます。「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」
今日はクリスマス・イブですね。ほとんどの教会で、夕方から夜にかけて燭火礼拝、キャンドルサービスをしています。私の教会も毎年5時(17時)からしています。キャンドルの灯は、この暗き世に「世の光」として来られたイエス・キリストを表しているのです。「わたしは世の光です。」「わたしは世界の光です」とイエス様が言っているのです。
この恵みの光は、すべての人に注がれます。そこに区別はありません。イエス・キリストは、すべての人に恵みを注ぐためにこの世に来て下さいました。ですから私たちは、イエス・キリストの恵みの光にあずかるために、二つのことを知らなくてはなりません。
一つは、私たちはこの世の暗闇の中にいるということ。
二つ目は、私たちはこの暗闇の中で、心の目が不自由であるということを知ることです。
そうしますと、次のイエス様の約束が私たちに伴うのです。
「わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」
世の光であるイエス様に従うということは、イエス様を信頼して従うことです。自分の人生を、光であるイエス様に委ねて歩むことです。ですから、この世が真っ暗であっても、光があるので道に迷うことなく安心して歩くことができますね。私たちは、暗いから不安で心配というのではありません。「光がない」ということが不安なのです。
東日本大震災の時、真っ暗闇の道路を家路に急いだとき、コンビニ店の明かりがついているのを見て、ほっとしたことを思い出します。ですから、世の光であるイエス・キリストに私たちが目を向けるとき、私たちの周りがどんなに暗く、どんなに真っ暗闇であったとしても、心騒がし恐れることはありません。この世の光であるイエス様を仰ぎ見て信頼し、従うならば、いのちの光、人生の光を持ち続けることができるのです。
いかがでしょうか。今晩、思い切って近くの教会で開かれています、クリスマス・イブのキャンドル礼拝へ参加してみたらどうでしょうか。
まず初めに、ヨハネの福音書8章12節を読みます。「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」
今日はクリスマス・イブですね。ほとんどの教会で、夕方から夜にかけて燭火礼拝、キャンドルサービスをしています。私の教会も毎年5時(17時)からしています。キャンドルの灯は、この暗き世に「世の光」として来られたイエス・キリストを表しているのです。「わたしは世の光です。」「わたしは世界の光です」とイエス様が言っているのです。
この恵みの光は、すべての人に注がれます。そこに区別はありません。イエス・キリストは、すべての人に恵みを注ぐためにこの世に来て下さいました。ですから私たちは、イエス・キリストの恵みの光にあずかるために、二つのことを知らなくてはなりません。
一つは、私たちはこの世の暗闇の中にいるということ。
二つ目は、私たちはこの暗闇の中で、心の目が不自由であるということを知ることです。
そうしますと、次のイエス様の約束が私たちに伴うのです。
「わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」
世の光であるイエス様に従うということは、イエス様を信頼して従うことです。自分の人生を、光であるイエス様に委ねて歩むことです。ですから、この世が真っ暗であっても、光があるので道に迷うことなく安心して歩くことができますね。私たちは、暗いから不安で心配というのではありません。「光がない」ということが不安なのです。
東日本大震災の時、真っ暗闇の道路を家路に急いだとき、コンビニ店の明かりがついているのを見て、ほっとしたことを思い出します。ですから、世の光であるイエス・キリストに私たちが目を向けるとき、私たちの周りがどんなに暗く、どんなに真っ暗闇であったとしても、心騒がし恐れることはありません。この世の光であるイエス様を仰ぎ見て信頼し、従うならば、いのちの光、人生の光を持ち続けることができるのです。
いかがでしょうか。今晩、思い切って近くの教会で開かれています、クリスマス・イブのキャンドル礼拝へ参加してみたらどうでしょうか。
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