キリストを信じることによって

出演者
福井誠
制作
PBA 太平洋放送協会
再生時間
5min

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アップロード日
2021.06.22
カテゴリ
人物・人生
聖書箇所
[新約聖書] ガラテヤ人への手紙 2章16節
放送日
2021.06.22

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 「世の光」の時間です。いかがお過ごしでしょうか、福井誠です。「継続は力なり」聖書を一日一日と読み進むなら、不思議にも自然に養われるものがあります。今日も聖書を開いてまいりましょう。今日は、ガラテヤ人への手紙2章16節より、「キリストを信じることによって」と題してメッセージをお伝えいたします。
 「しかし、人は律法を行うことによってではなく、キリストを信じることによって義と認められるためです。」
 ガラテヤの教会では、パウロが伝えた信仰の教えが歪められる、とても由々しき事態が生じていました。つまり、聖書の救いにあずかるためには、キリストの十字架にある罪の赦しを信じるだけでは不十分で、プラスアルファが必要だと教える者が現れたのです。
 例えば、当時ユダヤ人が行っていた割礼という儀式。それは男子の性器の包皮の一部を切り取るユダヤ人の儀式でしたが、この儀式もあわせて行わなければ、救われたとはいえないと主張されました。また、ユダヤ人が守っているように、律法の教えを守らなければだめだと主張する者も現れたのです。そしてこの問題は、教会の交わりにも影響を与えました。
 ユダヤ人は、ユダヤ人の儀式を守らない人々の救いは不完全であるとし、そのような人々とは一緒に食事はしないと、教会が割れていくのですね。そしてさらに、初代教会の指導的な立場にあるペテロやバルナバまでもが、その雰囲気に流された行動をとってしまいました。
 そこでパウロは、割礼はユダヤ人の文化であって、キリスト教信仰とは何の関係もないと語ります。そしてキリスト教信仰の中心は、十字架のキリスト、救いは、十字架上でキリストが受けられた苦しみを、自分の罪の赦しのためであると信じる、その一点に集中するだけで十分である。それに何も付け加えてはならないと明言します。
 確かに、キリスト教にあって、他になきもの、キリスト教のこだわりは、キリストの十字架にある罪の赦しです。そこが抜けてしまったり、そこがぼやけてしまうような、何か別のものが大事にされるようになるならば、それはもはや、キリスト教ではありません。キリスト教信仰は、イエスの十字架による罪の赦しを、ただ信じる。これに尽きるのです。では今日も、良き一日となるように祈ります。

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