見よ、この人を
- 出演者
- 関根弘興
- 制作
- PBA 太平洋放送協会
- 再生時間
- 5min
- タグ
-
- 孤独や悲しみを覚えるとき
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- アップロード日
- 2020.10.24
- カテゴリ
- 人物・人生
- 聖書箇所
-
[新約聖書] ルカの福音書 23章
[新約聖書] ヨハネの福音書 1章14節
- 放送日
- 2020.10.24
世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか、関根弘興です。
ローマ総督ピラトは、イエス様を十字架刑に処する許可を与えてしまいました。ピラトは、イエス様の言葉に真剣に向き合おうとはしませんでした。ピラトは、イエス様をむち打ちにし、群衆の前に引き出したとき、こう言いました。
「さあこの人です。見よこの人を」と言ったんです。これはラテン語では「エッケホモ」と訳されています。美術が好きな方は「エッケホモ」という言葉を聞いたことがあると思います。キリスト教絵画の中で、茨の冠をかぶせられて、裁判を受けているイエス様の痛々しい姿を描いた作品を「エッケホモ」と呼ぶのです。
ピラトは、「この人には何の罪も見いだせない。罪に定める理由がない」と何度も言っていました。また、「さあ、あなたがたの王です。」とも言っていました。
これらの言葉は、ピラトにとっては特別に何も考えずに言った言葉に過ぎませんでした。群衆に向かって「見よこの人を」と言ったときも、哀れな惨めなやつだとしか考えていなかったことでしょう。しかし、これらのピラトの言葉は、図らずも聖書が教える大切な真理を表すものになりました。つまり、イエス様はまったく罪を見いだすことができない方であり、「あなたがたの王だ。このイエスを見なさい。」ということなんですね。
聖書は、十字架につけられたイエス様を仰ぎ見る者は、誰でも救われると教えます。つまり、「見よこの人を」という言葉は、聖書の教えの真髄なんですね。イエス様を見るとき、私たちは何を知ることができるのでしょう。ヨハネの福音書1章14節にはこう書かれています。
「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」
イエス様を見るとき、私たちは神様の栄光を見、恵みとまことに満ちた姿を見ることができる。永遠の命を豊かに与えて下さる方を知ることができるのです。残念ながらユダヤ当局者たちは、「見よこの人を」と言われても、この男は見るに値しない男で、葬り去られるべき男だとしか思いませんでした。しかし私たちは、私たちの罪をすべて背負って、むち打たれ、茨の冠をかぶせられ、十字架につけられたイエス様を見つめるのです。そこに救いがあるからです。
ローマ総督ピラトは、イエス様を十字架刑に処する許可を与えてしまいました。ピラトは、イエス様の言葉に真剣に向き合おうとはしませんでした。ピラトは、イエス様をむち打ちにし、群衆の前に引き出したとき、こう言いました。
「さあこの人です。見よこの人を」と言ったんです。これはラテン語では「エッケホモ」と訳されています。美術が好きな方は「エッケホモ」という言葉を聞いたことがあると思います。キリスト教絵画の中で、茨の冠をかぶせられて、裁判を受けているイエス様の痛々しい姿を描いた作品を「エッケホモ」と呼ぶのです。
ピラトは、「この人には何の罪も見いだせない。罪に定める理由がない」と何度も言っていました。また、「さあ、あなたがたの王です。」とも言っていました。
これらの言葉は、ピラトにとっては特別に何も考えずに言った言葉に過ぎませんでした。群衆に向かって「見よこの人を」と言ったときも、哀れな惨めなやつだとしか考えていなかったことでしょう。しかし、これらのピラトの言葉は、図らずも聖書が教える大切な真理を表すものになりました。つまり、イエス様はまったく罪を見いだすことができない方であり、「あなたがたの王だ。このイエスを見なさい。」ということなんですね。
聖書は、十字架につけられたイエス様を仰ぎ見る者は、誰でも救われると教えます。つまり、「見よこの人を」という言葉は、聖書の教えの真髄なんですね。イエス様を見るとき、私たちは何を知ることができるのでしょう。ヨハネの福音書1章14節にはこう書かれています。
「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」
イエス様を見るとき、私たちは神様の栄光を見、恵みとまことに満ちた姿を見ることができる。永遠の命を豊かに与えて下さる方を知ることができるのです。残念ながらユダヤ当局者たちは、「見よこの人を」と言われても、この男は見るに値しない男で、葬り去られるべき男だとしか思いませんでした。しかし私たちは、私たちの罪をすべて背負って、むち打たれ、茨の冠をかぶせられ、十字架につけられたイエス様を見つめるのです。そこに救いがあるからです。
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