主であるわたしが語ったからだ

出演者
福井誠
制作
PBA 太平洋放送協会
再生時間
5min

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アップロード日
2020.09.30
カテゴリ
人物・人生
聖書箇所
[旧約聖書] エゼキエル書 26章13節
放送日
2020.09.30

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 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか、福井誠です。「継続は力なり」聖書を一日一日と読み進むなら、不思議にも自然に養われるものがあります。今日も聖書を開いてまいりましょう。エゼキエル書26章14節から、「主であるわたしが語ったからだ」と題してメッセージをお伝えいたします。
 「わたしはおまえを裸岩とする。おまえは網干し場となり、二度と建て直されない。主であるわたしが語ったからだ。──神である主のことば。」
 今日の箇所から28章までが、イスラエルの近隣の国、ツロに対する預言となっています。ツロはパレスチナ北部の地中海沿いに位置する商業都市でした。その都市に向けて紀元前586年、エルサレム陥落直後、神の言葉が伝えられるのです。その内容は、ネブカドネツァルがその町を包囲し、ツロが壊滅的な打撃を受けるというものでした。当時ツロの人々は、エルサレムを通る国際通商路において、特別な通行税を課せられていました。ですから、エルサレムがバビロンによって滅ぼされた時に、その陥落を喜んだとされます。通行税の利権が自分たちに回ってきたからです。エルサレムに集中していたお金の流れは、今度はツロという商業都市に流れ込み、ツロが豊かになるだろうというわけですね。
 しかし、このように自分の損得を考えて喜ぶツロを、神は喜びませんでした。箴言には、「あなたの敵が倒れるとき、喜んではならない。彼がつまずくとき、心躍らせてはならない。主がそれを見て心を痛め、彼への怒りをやめられるといけない。」とありますが、まさに神は、ツロの態度に心を痛められたのです。神はツロにさばきの宣告をされます。もはや、原始的に網を売って漁をする以外に、稼ぎの手段のない、そういう町になってしまうと宣告されていますね。
 大切なのは、生ける神の意思があるということです。しばしば人は、商売敵が敗れ去ると、そこに貪欲な夢を馳せることがあります。次は自分の出番だと、そしてそのような人が現れると脅威を感じます。しかし、どんなに時が味方しているようであれ、神がお許しにならなければ、そんな野心は露と消え去るものでしょう。なぜなら、主であるわたしが語ったからだという、生ける神の意思があるからです。実に恐れるべき方は神様です。人生において神の意思を尊重する、そんな事は考えたこともないという方もおられるかもしれませんね。しかし、世の中の動きを注意深く見ながら悟りを得たいものです。では良き一週を祈ります。

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